桜子先生 4 アメリカ
「お母さん、アメリカ兵の泥棒のこと覚えてる」
横に寝ている母の顔をちらっと見ながら、聞きました。
母が鉄砲で撃ち殺されると思った事件でした。
私の田舎には、日本海軍の兵舎があり、終戦までは日本の兵隊さんが訓練を受けていました。時々国道を行進する海軍の兵隊さんを見て、その厳しさに怖くなったのを覚えています。
終戦になって、使われなくなった海軍兵舎の周りで、当時進駐軍と言っていたアメリカ軍がテントを張って、アメリカ兵の訓練をしていました。
私の小学校三年生の頃だったと思います。
日本兵の厳しい訓練を見ていた私は、アメリカ兵の訓練のやさしさに、びっくりしました。
アメリカ兵は、疲れた兵士が道端に座り込むと、すぐにそこに休ませて、まもなくジープが来て、兵士を乗せてどこかへ連れて行きました。
日本海軍の兵隊さんの厳しい訓練ばかり見ていた私は、アメリカ兵はすごく弱い兵隊に見えました。
「お母さん アメリカ兵はすごく弱いのに、日本はどうして負けたの」
と不思議に思い、母に聞きました。
「日本は、あほやったんや」
と、ただ一言、答えました。子供の私は、納得がいかなかったのを覚えています。
当時は終戦後3年目くらいで、日本の都市は東京大阪をはじめほとんどが、B29という飛行機で爆撃され、焼き尽くされました。広島や長崎に原子爆弾が落とされました。たくさんの市民も亡くなりました。
母の大阪の実家も焼けてしまいました。
当時の日本は、三食の食事さえ食べれない人の多い時代でしたから、私たち子供は、松脂をガムだと言って嚙み、山や野原でイタドリや山苺を探して食べていました。
そのようなとき、訓練している占領軍のアメリカ兵は、物珍し気に彼らを見ている、貧しい姿の日本の子どもに、飴やガム、チョコレートなどを投げてくれたのです。
飴やガム、チョコレートなどは、見たこともない夢のお菓子でした。
私たち子どもは、アメリカ兵がお菓子を投げるのを、いつも期待して待ちました。それを面白そうに見ながら、彼らは道路に飴やガムなどを投げるのでした。
子供たちは必死で拾い、奪い合いました。
あの時、幸運にも私の目の前にチョコレートが飛んできたのです。夢のようでした。
私は大喜びで、握りしめて走って帰りました。ちょうど玄関に母がいました。
「お母さん 進駐軍のチョコレート、やっと拾えた」
と母に見せびらかしました。母はそのチョコレートをちょいと取り上げて台所に行って竈にほり込みました。あっという間でした。竈で燃えるチョコレートを見て、私は涙がボロボロ零れました。
「アメリカ兵が投げたものを、サルみたいに拾って食べるのは、嫌いや。戦争に負けても、サルになったらあかん」
と言って母は、出かけました。
私の一生忘れられない悲しい出来事でした。
そのころのある夜のことでした。
玄関のベルが鳴りました。看護婦さんが急患だと思って玄関を開けると、アメリカ兵が銃をもって土足で入ってきたのです。看護婦さんが奥に駆け込んできました。父が飛び出していきました。
薬局室の水薬の薬瓶を見て、彼らはウイスキーだと思ったのです。父がウイスキーではないと言いましたら、『飲んでみろ』と言って銃を突きつけたので、その銃を手で払ったら、父は柔道の達人ですから、払った銃がどこかに飛んだそうです。兵士は怒って、父に銃を突きつけて奥に入ってきました。びっくりした母が、
「あんたら、何してんねん、戦争に勝ったら、何してもええのんか。わては鉄砲なんか怖ない」
と、アメリカ兵に大きな声で啖呵を切って、向かって行ったのです。
その時私は、母が銃で撃たれると思いました。
兵士は、大声で怒鳴りながら向かってくる母を見て、一瞬きょとんとしました。
その時、外でピーという口笛の音がして、その兵士はあっという間に、走って外に飛び出していきました。見周り兵が来たという仲間の合図でした。
銃を持った兵士は、薬局室の箱に入れていたお金を持って逃げていきました。
翌日父は、高校の同僚の英語の先生と一緒に、アメリカ兵のMPに、昨夜の押し込み兵の話をしました。MPの腕章している人が、アメリカ兵の指揮官でした。
MPはすぐに訓練を辞めて、道端に全兵士を延々と並べました。そして
「昨日の兵隊はどれか」
と尋ねました。
父は看護婦さんや私たち子供にまで、昨日の兵隊を探せと言いました。
母は〚わては、いやや』と首を振って、家から出ませんでした。
看護婦さんたちは、初めて見る外国人の顔をみて、『みんな同じ顔に見える』と言って、昨日の兵士を見つけることは出来ませんでした。
しばらくして、父が
「ここにはいない」
と言いました。するとMPが、テントの中を全部見に行かせました。どこかのテントの中から兵士が数人、ひっぱって連れてこられました。
その中の一人を見て、
「この人です」
と、父が一人を指さして言いました。その兵士のポケットの中に昨夜持って行ったお金が全部入っていました。
その兵士はすぐにジープに乗せて連れていかれて、この騒ぎは終わりました。
どこかでこの兵士の裁判があり、そのたびにアメリカ軍は、父をジープで迎えに来て連れて行き、夕方送ってきました。帰りにはいつもアメリカ軍のお砂糖や食料、缶詰、お菓子など、当時決して手に入らなかった食料を沢山持って帰ってきました。見たこともないアメリカの食糧やお菓子でした。
裁判の日は、家族みんなの楽しみでした。
でも、母はすべて無視していました。
何回か行われた裁判が終わったとき、父は帰宅して
「あの兵隊はアメリカに送還して服役させます。アメリカ軍を許してください」
と、アメリカ軍に言われたと、みんなに話しました。
周りの人達は、アメリカ軍は立派な軍隊だと言って、感動していました。
しかしあの時、母だけは、
「わては、アメリカは嫌や」
とつぶやいていました。
「お母さん、今でもアメリカ嫌いなの」
と、布団の中で聞きました。
「好きには、なれんなぁ」
とつぶやきました。