劇場アニメ、AKIRAをニューエイジ思想と重ねる大胆な考察

これはぼくが2021年12月に別のところに書いた感想。気に入ってるので読んでもらいたいな

劇場アニメ、AKIRAをニューエイジ思想と重ねる大胆な考察

バイクのテールランプの尾を引く表現が印象的な作品。背景の緻密な描きこみがCGでは出せない存在感を放っている。人物の表情、特に口まわりの影の描きこみにこだわりを感じる。魅力的な近未来の世界観、と同時に昭和的なノスタルジーもある。すごく引き込まれる作品だ。 1988年公開のアニメ映画、33年前のアニメである。「大友克洋全集」発売記念で無料公開されていたので見た。オタクの教養として10年くらい前にも見たことがあるのだが、当時は「よくわからない」という印象を持っただけだったと思う。テツオの痛みに共感するくらいのことはあったが、感想を書いたわけでもないし、人に薦めたこともない。しかし今回見直してみて違う印象を持った。この変化は自分の経験と知識が増えていたからだろう。AKIRAの世界に暮らす人々が何を感じているのか。"AKIRAの力"が何なのか、ぼくはそれをよく知っているように思えた。

作中のネオ東京が辿った歴史、学生運動、渦巻く欲望、繁華街の吹き溜まりに象徴される虚しさ、閉塞感。何かをしなければならないが何をしたらいいのか分からない若者たちの焦燥、超常的な存在によってブレイクスルーがもたらされることを期待する人々。そして実際に社会を変えようとしている人々。

この世界観は完全につじつまが会っているように思える。理由は簡単で、現実の歴史と韻を踏んでいるからだろう。一回目にAKIRAを見た時には、ぼくは60年代安保闘争の話を知らなかった。ヒッピー文化を知らなかった。反戦とドラッグとロックンロールに象徴される60年代カウンターカルチャーと、その思想的バックボーンになっていたニューエイジカルチャーを知らなかった。オウム真理教の事件を知らなかった。

ヘレナ・ブラヴァツキー(1831–1891)に端を発するニューエイジ思想(後のスピリチュアルの思想)はユダヤ=キリスト教的価値観の否定と東洋思想に対する興味からはじまっている。西洋の価値観では自分の中に神はいないが、東洋の考えでは自分の中に神がいる。西洋の宗教では奇跡を起こす者は聖人で、それは例えば天啓を受けたモーセやキリストなのだが、東洋の考え方では人間ならば誰しもが天啓を受ける能力を持つ。例えば苦行により、例えば断食により、座禅により神を体験することができる。インド哲学ではアートマンとブラフマンは一体なのだ。神に祈る信仰ではなく、神を体験する信仰。これを神秘主義という。

なぜこういう思想が出てきたかというと、教会が良いものを決めるという従来の考え方が、自由主義という考え方の広まりつつあった時代に合わなくなっていたからだ。わたしが良いと思うものは良い。教会に何を言われようと人に迷惑をかけなければ良い。おれの中では教会イチオシのルーベンス、「キリスト降架」より北斎の「蛸と海女」の方が良い。それが自由主義だがキリスト教的価値観が失われていく社会に戸惑う者も少なくなかった。

ブラヴァツキーが活躍していたのが1800年代後半。ニーチェは1882年に「神は死んだ」と宣言している。キリスト教の魔法の解けてしまった世界で、人々は生きる目的を探していた。「奇跡も、魔法も、あるんだよ」(美樹さやか)。人々はそんな言葉が欲しかったのだ。生きることはつらいこともあるけど、その試練には意味があるんだよ。そんな言葉が欲しかったのだ。

AKIRAの作中でケイは「AKIRAの力は誰の中にも存在する」と言っている。やはりこれは神秘主義の考え方である。そしてこの台詞のうらを返せば、人は誰でも潜在能力として"AKIRAの力"をもっており、それを使いこなせていないということだろう。この考え方は1960年代から始まり、のちにニューエイジカルチャーと結びついたヒューマンポテンシャル運動(人間性回復運動)を彷彿とさせる。

アメリカ西海岸からはじまったヒューマンポテンシャル運動は、1962年に鈴木俊隆の創設したサンフランシスコ禅センターとビッグサーのエサレン協会が中心となった。彼らは東洋思想と芸術に強い興味を持ち、ヨガや禅、芸術を通して人間の潜在能力を引き出すことを目指した。彼らは心理学者アブラハム・マズローの人間性心理学やトランスパーソナル心理学に強い興味を持ち、それを科学的根拠にしていた。いずれにせよこの時代、"AKIRAの力"を求める若者がたくさんいたのだ。

これはアメリカの話にとどまらない。あまり意識している人はいないかもしれないがオウム真理教や創価学会、幸福の科学など、この時代の日本の新宗教はニューエイジ思想の影響を受けている。あるいは影響を与え合っている。それが証拠にオウム真理教から分離独立した光の輪のホームページに行くと人間性心理学やトランスパーソナル心理学に関する資料を見ることができる。ニューエイジ思想についてもっとも詳細に、体系的に理解している組織が光の輪かもしれないとさえ思える。

ニューエイジ思想は言葉からも分かるように終末思想を含む。ひとつの時代が終わるというのだが、伝統的な終末思想に比べるとニューエイジはポジティブだった。エイジ・オブ・アクエリアス。うお座の時代が終わり、これからみずがめ座の時代に入る。みずがめ座の時代に人間は霊的進化(アセンション)を遂げるのだ。「オカルティック・ナイン」を見たアニオタならば「アセンション」と言うワードをさんざん聞いた記憶があると思う。あれがだいたい霊的進化論だ(そうか?)。

作中、大佐らがAKIRAの保管されている地下施設に向かう場面、「彼らの能力は人類の新しい進化の形態で、やがては我々にもコントロールできるのでははないかと……」という台詞がある。若い科学者の言葉を博士が代弁した台詞だが、アセンション思想を感じる。

近代神智学の流れをくむスピリチュアルの世界観では、人間はかつて精神文明の時代に暮らしていたが、精神的退廃を経験したために精神文明を忘れてしまったのだという考え方をする。ニューエイジ思想に大きな影響を与えた預言者エドガー・ケイシー(1877-1945)は自分の前世はアトランティス人であるとし、精神文明の時代を古代アトランティスと関連付けている。我々は精神文明を思い出す時期に来ている。

バカげた主張のように聞こえるかもしれなが、ニューエイジ世代は第二次世界大戦直後を生きた世代だ。科学の破壊的側面を強烈に記憶にとどめていた世代だ。古代の精神文明一辺倒の時代は終末を迎え、次の科学文明の時代は我々が経験したように第二次大戦で破壊された。両方を経験した人間は精神と科学の「調和ある収斂(ハーモニック・コンバージェンス)」を迎え、水瓶座の時代(エイジ・オブ・アクエリアス)へとアセンション(霊的進化)するのだ。こう考えると希望を感じるし、自分たちの犯した過ち、経験した試練は無駄ではなかったと納得させることができる。

作中で最初にアセンションを果たしたのはテツオである。少なくとも赤いマントを羽織っている間はそうだった。テツオを見て新しい時代が来たと実感している人々がミヤコ教団の信者たちだ(アニメでは教団名は出てこないと思う)。マントを羽織ったテツオがオリンピック建設現場に向かって歩いていくと、その後ろを信者たちがついていく。テツオもテツオで後ろからついてくる彼らにまんざらでもないような顔をしている。テツオは何しろちやほやされたいのだから。直後にそのことを端的に表しているカットが挟まれる。機動隊がテツオに向かって発砲すると、その流れ弾がテツオの後ろを歩く信者に当たってしまう。するとテツオは眉をしかめた。既に何人も殺しているテツオが、後ろからついてくるだけの信者の死に心を動かされているのだ。テツオはちやほやされたいのだ。

前半のシーンに戻るが、病院から抜け出し、カネダに再会したテツオの台詞からはテツオのコンプレックスが読み取れる。

テツオ「うるさい。おれに命令すんな」

カネダ「心配してたんだぞ」

テツオ「どうしていつも助けにくるんだ。おれ一人だってやれたんだ!」

カネダになりたいが自分はカネダになれない。これがテツオのコンプレックスだ。ぼくはこのテツオの心の痛みを知っている。本当は人は何者かになる必要なんてない。人間の長い歴史に於いて、何者かになることを要求される社会が形成されたことはほとんど無かっただろうとおもう。

親の仕事を継がされて、それでも文句を言いながらやるべきことをこなしているというような時代ならば、何者かになることにこんなに悩むことは無かっただろう。理不尽な苦痛を経験することのある時代かもしれないが、理不尽な結果ならば自分の無能を呪わずに済む。インドのカースト制度はきっと多くの人にとって幸せだ。活躍の場を奪われている一部の天才と、一番虐げられた少数が不幸なだけだろう。職業選択の自由だなんて言ったって、どこでもいいからと内定を欲しがっている人ばかりだ。もしかすると自由主義は圧倒的多数を占める普通の人からカースト制という言い訳を取り上げてしまったのではないだろうかと思うのだ。

自由主義が幅を利かせるようになると、人々はなぜか閉塞感を感じるのだ。1927年のチャールズ・リンドバーグの大西洋単独無着陸飛行の成功に沸くアメリカの民衆の心境を、スコット・フィッツジェラルドが代弁している。1929年のアメリカの株価の大暴落に端を発した世界恐慌の2年前である。バブル絶頂のアメリカである。

何か光り輝く異様なものが空をよぎった。 同世代の人々とは何も共通点も持たないかに見えた、一人のミネソタ出身の若者が、英雄的行為を成し遂げた。 しばらくのあいだ人びとは、カントリークラブで、もぐり酒場で、グラスをしたに置き、最良の夢に思いをはせた。 「そうか、空を飛べば抜け出せたのか」 われわれの定まることをしらない血は、果てしない大空にならフロンティアを見つけられたかもしれなかったのだ。

好景気に沸くアメリカ。誰もが共有していたであろう万能感。その裏で人々はなぜか閉塞感を感じていたのだ。この閉塞感から生まれてくるのがAKIRA信仰なのではないだろうか。まだ気づいていない自分の能力を信じて自己啓発セミナーに通う人々。情報商材に興味を持つ人々。言霊信仰、断捨離信仰、自然食信仰に見られるような、ひとつ習慣を変えるだけで人生が劇的に上向くという考え方。自分探しのためのインド。これら全てがAKIRA信仰に象徴されているように思える。

AKIRAの原作者がそれを狙ったかどうかはしらないし、その時代を知る人々がみんなニューエイジ思想に触れたわけではないと思う。それでも同時代の人々はニューエイジをはぐくんだ時代の空気を十分に理解していたのではないだろうか。同時代を生きた人でなくても生きにくさを感じていて心に"AKIRAの力"を期待している人は少なくないのではないだろうか。

そしてAKIRAの力は今はまだ人間にコントロールできないものだと作品は結んでいる。

「でも、いつかはわたしたちにも」

「もう始まっているからね」

「ぼくはテツオ」

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