「ストーリーが世界を滅ぼす」と古池に飛び込む蛙

「古池や 蛙飛び込む 水の音」
松尾芭蕉の有名な俳句について、「この蛙は一匹か、複数か」という論争があるらしい。

僕は完全に一匹だと思っていたし、古池の静寂の中にぽとんと一度音がなることで寂寥感がましていく、風情を考えればそんな景色しかないのではないかと思っていた。
一方で、日本人よりも日本の文化を理解していたであろうラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は
Old pond―frogs jumped in―sound of water.
とこの歌を訳した。「frogs」、つまり複数形で訳したわけだ。

こちらについては東城敏殻さんがノートルダム精神女学院のエッセイで解説してくださっている。

いわく、この句はまず弟子が「蛙飛び込む水の音」という下の句をつくり、そこに「古池や」をあとから芭蕉が返句でつけたという。

その成立の成り立ちも考えると、「古池や」と切れ字を使っていることもあり、古池や、と、蛙飛び込む水の音、とは別の景として考えた方が良いという解釈があるのだという。目の前の古池に今まさに蛙が飛び込んだその一瞬の寂寥を描いたのではなく、
古池というものにパラパラと蛙が飛び込む春が訪れたという、具体というより抽象を描いている…という解釈もあるとのこと。(これ自体も一つの説であるということも忘れてはならないと思う。)

ジョナサン・ゴッドシャルの「ストーリーが世界を滅ぼす」を読んだ時、ふとこの松尾芭蕉のエピソードを思い出した。

「ストーリーが世界を滅ぼす」は生々しい「ファクトフルネス」という印象を受けた。
人は物語があるものを受け入れやすい。会社の事業にしろ、ストーリーがあるものは人を惹きつける。
ただこれは、逆にいうと、偶発的に起きたことをただ偶発的に起きたものとして捉えるのは非常に苦手だということ。単なる一事象にすぎないものを、起きたことだけ事実として捉えるのは比較的困難であるということ。

陰謀論に人が騙されやすいのもまさにこれで、点と点を線として示された瞬間に、点を点として捉えることは難しくなる。そして、実はそれなりに知的レベルが高い層の方がこの罠にはハマりやすい。その線が複雑なものであればあるほど、「多くの人には理解できなくても、自分には理解できる」と感じる現象が起きる。

そしてこの本の論旨としては、その対策として、誰もが発信者になる時代、なんならAIが発信者になる時代だからこそ、もっともらしい話を聞いたとしても、まずは自分で調べ、自分で確認し、自分の頭で考える習慣をつける必要がこれからはますます必要になる…というものだったと自分は解釈した。

そんな話を読んでなぜ松尾芭蕉の古池の蛙を思い出したかと言うと、日本語というのはスーパーハイコンテクストな言語であり、人が頭の中でストーリーを組み立てることで成り立つコミュニケーションの極みみたいなものだよな、と思ったからだ。

もちろん俳句は文学でありアートだと思うので、受け手の解釈が受け手にとっての正解、でいい領域だとは思うけれど、

それにしても、俳句の成り立ち(七五が先にあり、古池やは後からつくられたという背景)まだ調べてから咀嚼するのとそうでないのとではやはり印象は変わる。

僕などは物語を読む経験が多かった分、確定した事実をかき集めるより、過剰にハイコンテクストな解釈に陥り安いとも感じている。確定していない点があっても、今ある点で考えられる筋を答えとしがちだと最近感じることも多かった。

サマリファーストであることが推奨されて久しいけど、これはこれで、一度サマリを読んでインプットしてからプロセスを読み始めることで、何かが歪んでしまうように感じることもある。サマリに書かれたコンテクストを元にプロセスを読んでしまうというか。

おそらくここは自分の弱点だと思っているのでまだ頭の整理ができていないまま書き始めたので少しとっ散らかってしまった。

ただ、「フラットに起きたことを受け止める」ことがとても難しい時代なのだなということ、「十分に事実確認をしてから自分自身で考える」こともとても難しいのだなということ、その二つを感じた時に、

「そういえば芭蕉のカエルは結局一匹だったのかな、これを踏まえた上で自分はどう思うかな」などと考えた次第であった。

ちなみに結局僕の中では結論、やはり一匹だと思った。
なぜかというと答えは簡単で、色々と背景を知った上でもなお、松尾芭蕉がこの句を通して人の心に呼び起こしたいと想定したであろう感情のやらがに最も近いものを自分の中に引き起こすのは、

やはり静寂の中に一匹のカエルが飛び込む音がし、そのあとまた静寂が訪れる、その数旬の景色の方だと思ったから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?