「わかる。」とは何なのか?
人は大人になる過程でいろんなことを「わかった。」つもりになるが、実際のところ何がわかるのだろうか。
よく大人が、子供に向かって「大人になればわかる。」と言うが、大人は何がわかってるのだろうか。
「大人になったらわかる。」ということは、大人は子供にわからないことがわかるということだろう。
では、そのわかることとわからないことの境界線はどこにあるのだろうか。
人はいろんなことに思いを馳せて悩みを膨らませる。
例えば、「幸せ」について問いてみたり、「愛」について問いてみたり、「自由」について問いてみたり。
この問いについて、大人はわかることができてるのだろうか。
わかるとしたら説明して欲しい。
人は、わからないことに不安を覚えて、それをわかろうとするためにいろいろと知識を蓄える。
そして、わかったこととわからないことの境界線はわからないけど、わかったつもりになっていたりする。
知識をどれだけ蓄えても、その境界線がわからなければ、「わかってる。」ということにはならないだろう。
一方で、もしその境界線を自分で引けたとしても、引く場所が間違っていたらそれはわかってるとは言えないだろう。
川の中で両手を使って水をすくったとしてもすぐに形を変えてしまうように。
昨日形Aだったものが、今日は形Bになるとしたら、どちらかというとそっちの方がやっかいだったりする。
わかっていたものが次の日にはわからなくなるのだから。
例えば、ある人は川の中で水をすくって「確かにある。」と言い、その形を必死に保とうとしている。
でも、何かを掴んだ思ったら水が手の隙間から溢れて形が変わっていく。
またある人は、そこで慌てふためいて「いや確かにあったんだ。」と、水の形を必死に戻そうとする。
でも、次の瞬間に水はまた別の形に変わっていく。
その人は水をわかってるようでわかってないから、どんどん心の中で迷いが増えていく。
そして、気付いたら川の中で足を取られて水中に沈んでいく。
泳ぎかたを忘れてしまった魚のように。
その人は、窒息しそうになって初めて気付く。
もともと水に形なんてなかったのだと。
水をわかろうとするがあまりにわからなくなっていたのだと。