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アラカンさんのひとりごと
最近ゾロ目ばかりを、たて続けに目にしてしまうことに、私は悶々としていたが、このご時世からだろうか、エンジェルナンバーなどと言って、やたらと縁起担ぎをうたう書籍やら、サイトが多いのだ。
だいたい、日が傾いてくる頃から決まって熱を出す私は、夜半には下がってケロッとするのだが、続くたびにこれはヤバい、かなりの体力を消耗してしまうと、頑張りのきかない己に、諦めと若干の憤りとを、ひしひしと感じる日々なのである。
何がエンジェルナンバーか、と車を運転しながら、ゾロ目のナンバープレートを無意識のうちに目で追い、やるせない気持ちとは裏腹な、スピリチュアルにでもすがりたくなる自分の深層心理に気づき、心の谷間の底を直視してしまうと、人間どうしたって挫けそうになる。
生来の怠け者でもないが、小さい子供の時分よりずっとコンプレックスであった「お調子者だけど虚弱体質」という特性は、半世紀を超えて生きて来たというのに、なに一つとしてミラクルは起きずに、この時代にまんま残されてしまった、やっぱり何か変ちくりんな独りのアラカンさんなのだろう。
昔、リウマチで寝たきりだった父方の祖母が、将来自分の病が孫たちに遺伝しなければいいと、幼い私たちの行く末を案じ続けていた事を、成人した後に、父に聞かされる事になる。実際、我が家は、父が1型糖尿病、妹も6歳までネフローゼ症候群を発症していたという、れっきとした膠原病、自己免疫疾患の家族歴がある。
自分も、夜毎に起きる発熱や、雨になると身体中の関節がしくしく痛む等、思春期に入ったころから生じた軽い絶望感も、今日まで我が身とシャドウとの蜜月の仲…まぁ良くあるちょっとした家族の重たさという名の、気だるくも血族の証明のようなものが、この半生を土留め色に縁取ってきたのに相違ないのだろう。
学童期・学生時代は、腺病質な子供にありがちな、どちらかというと目立たないというタイプでは実はなかった。同級生たちに会うことも、楽しいには楽しかったが、大人たち、つまりは教師側に妙に可愛がられるといった一種の特殊能力やも知れぬ、今思うと、「マセガキ」であったようである。
記憶力があまり良くなかった私は、学業成績は至って普通であったが、母が内職しながらかけていたラジオから流れるディスクジョッキーらの軽快な喋り口調が、乳幼児からアタマに染み付いていたのやもしれず、大人が喜ぶような話題やネタで、面白おかしくその場を盛り上げることを信条としていた。
父は、元々末っ子で放蕩息子、宵越しの金は持たねぇ、といった性分で、そんな家計を支える母は、ミシンを踏んでブティックの注文服を仕立てて、宮大工だった曽祖父さん譲りの職人魂で芸能人の衣装も手掛けるなど、朝から晩まで仕事、仕事、そしてまた仕事。数えで十までひとりっ子だった私は、思うに良好な養育を受けづらかった。
一番最初の記憶が、団地のお友達に駄菓子屋さんで買ってもらった5円のチョコレートを食べたことが発覚してこっぴどく叱責され、ひきつけを起こしそうになり、慌てて母に抱き抱えられる…というものであった。2歳であった。
金に関してはだらしなく育ってはいけない、と母は、間違いなく、父に死ぬほど苦労させられた我が身を呪って居たであろう。元から、リケジョさんだった母には、厳しすぎる日常に、我が子にこそ手は上げなかったものの、世間でいうところの、子供はほめて、おおらかに育てる、等という事が分かる由もなく余裕すらなかった。
そうかと思うと、我が家では、父の趣味であり、仕事先の上層部が推奨したバイオリンの幼児教育で名高い「鈴木メソード」に私を通わせたのである。つまり決して、両親は子育てをないがしろにした訳ではなかったのだ。
時は、日本は高度経済成長期。テレビでは、良質な子供番組が放映され、今よりもずっと幼な子を育てやすい環境であり、また、許された時代でもあったのである。ただ、父にも母にも、各々に発達の凸凹が少なからずあったのは否めない事実であったことを、自分が後に特別支援学校教員となり、深く知ることになるのであったが…。
かく言う私も、注意欠陥多動性障害と自閉症スペクトラム障害を併せ持つ一人である。もしかすると、最近までの診断名「schizophrenia」つまり、統合失調症も、カテゴリー的に自閉症スペクトラムのグラデーション側に位置付けされるのだが、これは、殊に今、親子の絆を超えて世界的な大きな意味合いを持つのだろうと踏んでいる。
最近、流行りのワードのひとつである「ポンコツ」…。私も大好きな言葉。たまらなく好きだ。
人はみなポンコツ。世界もまた、みなポンコツ。
泥沼から、美しい蓮の花が咲くように、混沌とした泥沼のような人間模様の中から、とびきりキャッチーでこの上なく泣けるほどの透明感を持ったニューカマーが誕生することは、この世の真理であり、人類の救いでもあるように思える。
コロナ、戦争という、果てしなく堕落し切った人間社会に突きつけられた、ある種、神からの挑戦状とも言える諸々の出来事に、人々はおののき
連日マスコミからは阿鼻叫喚を極める、悲惨な現状が伝えられているが、そんな中で産まれる数が激減している「子供たち」事情に大きな変化が起きている。
発達障害、食物アレルギー、性的マイノリティ、
gifted、近年明らかに、様々な問題を抱えて生まれてくる傾向がかなり目立つのは、ご存じのとおりである。
時は遡って。平成の時代に流行った「世界にひとつだけの花」という曲。ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン。
ご存じ、この槇原敬之さんの楽曲は、うがった見方をすれば、勝つ為の戦争はしなくてもいい、今風な言い方ならば、要は、生産性原理に乗っからなくてもいい、という感じに思えてくるのだ。
戦後、日本の外圧、内圧の歴史上において、このエポックメイキング的な発想は、世間ではなかなかの物議を醸し出した訳だが、そんな人たちの思惑をピョンと飛び越えて、現代を生きる子供たちに既に内在していることを、もはや、認めざるを得なくなったという共通の意識が我々の根底にはないか。今や、若人の大多数が、生まれ持っての自由主義者である気がしているのは、現場を離れた元教員の思い込みだけではないように感じるのは否めない。既成概念を取っ払い、価値観をひっくり返す勢いのある現代の人々を、アラカンの私も応援したくなる。
齢58にして、この人生に花を咲かすとは、単に個人の夢を叶える事のみならず、意識の変容を伴う、自らの新しい価値観を世界に広げて行き、共に高め合うと言った人類全体の具現化に他ならないのでは…そんな気持ちになるのである。
偉大なる世界の歴史は、ポンコツが作り上げてきたのだと、ポンコツを代表して、ポンコツの極みである私が申し上げておきたい。
いつの世も、いつの時代も、どんな人も。
内なる、それぞれに生まれ持つ「分け御霊」をのびやかに発動させるために、ヒトは生きたいと思っている…そんな風に私は密かに思い続けてやまないのだ。