2019.11.5
今日は母の命日
あの日、早朝に目覚めたら秋らしく肌寒かった。
朝の準備をしていたからか姉からの携帯の着信に気が付かなかった。
旦那に言われて気がついた。
この時間に姉から電話があるということは
母の事だろうすぐに分かったけど
内容が思っていたのとは違っていた。
取り敢えず、すぐに病院へ来てほしいと言われた。
着替えながら子供達の事なんかを旦那に頼んで病院へいった。
車中、当時よく聴いていたマカロニえんぴつのミニアルバムがかかっていた。
病院に着くまでの運転中にも姉から何度か着信があった。
開院前のまだ暗い病院に入ると、姉の背中がみえ
た。
そして姉からの電話で聞いた通りの母の状態を医師からも聞き、処置室に連れて行かれた。
既に意識がない母は寝ているようだった。
晩年、寝ていることが多かったので、いつものようにただ寝ているだけにみえた。
姉が言うには前の夜から背中を痛がっていた
と聞いた。
直接の死因となった大動脈解離というのは相当な痛みがあるものらしいが
思えば若い時から母の口から「しんどい」は聞いても「痛い」という言葉を聞いたことはほとんどなかった。
母が痛みに対して弱音を吐いたところを私は知らない。
母は、10代の頃に両親を亡くして年の離れた姉や兄はいたものの結婚してからの身内は旦那(私の父)だけという中で、親戚の工場(肉体労働)で夫婦で働いていて、手先も器用で料理上手でコミュニティ能力もあってしょっちゅう家では(さらに化物級コミュニティ能力の父の)飲み会が開かれており、それに対応出来る人だった。
若干、私達子供に依存気味なところがあって鬱陶しく思う時もあったけど若い時に両親を亡くしている事を思うと当然な気もしていた。
専業主婦になることもなく父が頚椎を痛めて仕事を辞めるまでずっと共働きで、休みの日は家の事をしたり、美容室へ行ったり、友達とお出かけ等でプライベートも充実させていたので母と一緒にいた思い出はあまりない。
自分が小3の時に仕事中に工場で大怪我をして手術と入院からの休職をしている期間があった時、家にお母さんがいるのが凄く嬉しかった事をずっと覚えている。
母の立場になれば怪我の後遺症で右手の変形やリハビリなんかで大変だっただろうけど。
やはり器用な手先を武器にしてまたしても新しい趣味をみつけて、いろんな作品が溢れかえっていた。
学校から帰ったらお母さんがいて、テレビみながら何か作品なんかつくっている、その場面を今でも覚えているぐらい特別な時間だった。
孫(私の娘)が生まれた時は、色々助けてもらったし、溺愛して二人は大の仲良しだった。
私は母のお手伝いをしている娘の二人の姿をみるのが大好きだった。
娘の好きそうな本を沢山プレゼントしてくれた。
5年後の孫(私の息子)とはよく口喧嘩していたけどそれも面白かった。どっちも折れない性格で。
そんな孫以上に大事な父が亡くなってから人が変わったようになってしまった母。
そのかなしさを何年経っても孫では埋められなかった。
母のかなしみは誰にも分からなかった。
母が息をひきとった時、かなしみは勿論あったがやっとお父さんのところへ行けて良かったと安堵の気持ちがあった。
自分がそう思いたかっただけかもしれないけれど母の顔は、とても穏やかにみえた。
