見出し画像

【短編小説】クヌギの森

1.
目が覚めると周りは鬱蒼としたクヌギの森だった。
明るい木漏れ日がまぶしい。
カサカサと至る所から聞こえてくる。

どうしてこんな所に私はいるんだろう。
そうだ確か高熱がずっと何日も続いていて、だんだんと意識が薄れていったんだった。

2.

もう10日も熱が下がっていない。病院で貰った薬は全く効果がない。
1週間分飲み切って、病院に行かなければと思いながら立ち上がる力もなく壁にかけたカレンダーをぼんやり目で追うと熱が出始めて既に10日が過ぎている。

意識が徐々に遠のくのと同時にとうとう彼に会えないまま私の人生終わってしまうんだなってうっすらと考えていた。

3.

こんな森なんか来た事ないし、一体どこなのかも分からない。何だか周りがやたらと大きく見える。
突然大きな黒い塊が目の前に現れた。
「うわっ!何これ?虫のおばけ?」
「何を叫んでるんだ?虫のおばけだと?」
(あ、言葉が分かる!)
よく見るとそう言ったのは巨大なクワガタだった。思わず咄嗟に自分の身体を見た。
黒い虫の手だ。頭も触ってみた。
(えー!私、クワガタじゃん。しかもメス。)
目の前にいるのはバルタン星人ならぬクワガタのオスだった。
迫ってくる!きゃーっ!
夢中で逃げようとしたら、思わず背中の羽が開いた。
そして
クヌギの森の上空を高く高く舞い上がっていた。

4.


とにかく上へ上へと高く高く飛び上がった。上がれるまで上へ力の限り羽をばたつかせた。
さっきの場所を見下ろすと、森と思っていた所は山の麓の辺りの木が沢山生い茂った所だ。
そこを離れて飛んでいくと、前方に街が見えてきた。そして川を越えたら見覚えのある所についた。

住宅街の中にある一軒の家の庭木を見つけてそこに向かって夢中で飛んだ。やっと一息つく場所まで来れた。羽を休めながら、記憶に残る昔の人間だった自分の事を思い返していた。

そうだあの時、私は大好きだった彼とけんか別れをした。
彼に会う勇気が出ないまま10年も経った。思い切って勇気を振り絞って会おうと決心した時、既に連絡先は不明になっていた。
何度もデートはしていたけれどまだお互いの家に行くほどまでには親しくなれていなかった。
親しくなっていないのに私はもう彼しかこの先一緒に生きていく人はいないと思っていたのだ。
けれど、彼はまだ人生これからとばかり自由に遊んでいて確かに誰よりも今は自分のことを好いてくれていると思うものの、1番親しい女友達以上には考えていないようだった。
ちょっとした意見の食い違いがでてささいなケンカをしてしまった。
「これからもずっと付き合っていきたいとは思ってるさ。でも、すぐに結婚なんてまだできないだろう?結婚には準備がいるし。お金だって満足にないのに。」
「それは分かってるけど…。」

沈黙が続いて次に会った時は何だか彼が自分を避けてるように感じた。
自分から連絡をする勇気がなかった。冷たく突き放されそうで、悶々と過ごしているうちに1年2年と過ぎてしまった。
バカみたいだ。ただ連絡すれば良いだけなのに。それがどうしてもできないなんて。
電話は繋がらなかった。
そこで思い切って家を訪ねて行ったら、そこは誰もいない空き家になっていた。
今頃泣いても仕方ない。なんでもっと早く勇気を出していなかったんだろう。もう全てがどうでも良い事に思えた。
地味で大人しい私なんて、あの時自分から連絡したところで、飽きられてめんどくさがられて捨てられる運命だったんだろう。

親の反対を押し切って遠い住んだこともない彼の住む街で一人で暮らしていたって、何の意味もない。

5.

それからただ黙々と働くだけの毎日。残業してヘトヘトになる方が気持ちが楽だった。
彼が居なくなって10年も過ぎたなんてあっという間だったな。一体私は何の為に生きてるんだろう。
日に日に虚しい気持ちが心の穴をどんどん大きく広げていくように思えた。
そんな時、高熱が出たのだった。風邪とは思えない。風邪の症状はない。でもこんなに熱が出るのは風邪だろう。
インフルエンザではないかと思ったけど陰性だった。とにかくお医者さんは風邪薬を出しておきますと言って1週間分のお薬を処方してくれた。
あれから熱が下がらず意識が遠のいたと思ったら、目が覚めると森の中にいたのだった。

空を自由に飛べるのが分かると不思議と気持ちが軽くなった。別に人間だった自分の人生に何の未練もなかった。
しばらく飛び回る感覚が面白くて夢中になって、休んでは飛び、また休んでは飛ぶというのを繰り返した。

6.

そんな飛び回る中で彼を発見した。え。なに。10年も経ったのにそのまま?そろそろ髪の毛が薄くなったり体重が増えたりしてても良い頃では?
本当に彼かな。とにかく近づいてみよう。
彼の足元に舞い降りた。
降りたと同時に後ろから捕まえられて持ち上げられた。
「あれ、これクワガタじゃん。」嬉しそうに笑う彼。
「ちょっと待てよ。ちょい待ち。」そう言って走って走ってマンションの一室に駆け込んだ彼は、小さな箱に私を入れて、ペットボトルの蓋に砂糖水を入れて飲ませようとした。
喉が渇いていたからちょっと飲んでみた。
箱の上からラップが貼られ、爪楊枝でプチプチと穴を開ける音がする。

7.
長い時間が経った。
「ただ今〜。」彼の声だ。
「お家を買ってきたよ〜。」
(彼ってこんな話し方するの?なんかメロメロのデレデレ声だ。猫なら分かるけど。クワガタだよ?)

大きな虫かご、ふかふかのマット、美味しそうなゼリーが乗った餌台。クヌギの葉っぱ。
よじ登るのに丁度いい大きな木の枝。

(なんかすごくよくね?)
毎日ニコニコ顔の彼の顔が見れて、まるで赤ちゃんに話しかけるかのように彼が優しく語りかけてくる。
私はこんな姿を見られるのが恥ずかしくてスタコラ逃げてマットの下に隠れた。
マットの中をぐるぐるトンネルを掘ったりした。

毎日新鮮なゼリーをくれて湿度も完璧。
こっちを見てると思うと、さっと影に隠れて、彼がこちらを見てない時に彼を観察する。
間違いない彼だ。1人で暮らしてる。ヨシ!

「何もしないから出ておいで。
でも隠れてても可愛いよ。」
彼が昔、私を見ていた時と同じ瞳でじっと見つめてくる。
欲しかった言葉を毎日伝えてくれる。
もうずっとこのままでいいや。
クヌギの森を脱出して良かった。
できるなら、ずっとずっとこのままでいたい。
彼はクワガタの私に、私の名前をつけていた。


いいなと思ったら応援しよう!