【競馬】日本ダービー馬コダマとソ連発祥のミチューリン農法の意外な関係
はじめに
コダマという競走馬をご存知だろうか?
1960年に皐月賞・日本ダービーに勝利しクラシック二冠となった馬であり、60年代の活躍馬としては三冠馬シンザンに次ぐ知名度がある馬だろう。
今回、別件を調べるために国立国会図書館デジタルコレクションで昔の競馬関係の資料を閲覧していたところ、コダマの生産牧場である北海道浦河町の「鎌田牧場」において、ソビエト連邦発祥の「ミチューリン農法」なるものが採用されていたという記事を複数発見することが出来た。
戦後日本の競馬とソビエトの科学という、一見関係なさそうな両者に意外な接点があった、というのが興味深かったので、ここに紹介してみたい。
ミチューリン農法とは
そもそもミチューリン農法というのは何か。
まず、ミチューリンというのは人名で、ソ連の「育種家」「園芸家」と紹介される人物。
ミチューリン農法については別名「ヤロビ農法」とも呼ばれるという。
この農法、ルイセンコ論争で知られる、ソ連の生物学者ルイセンコがミチューリンの理論を発展させたものがバックボーンにあるらしく、現在からみると、いかがわしさがプンプンしている。(が、この記事では、この農法が科学的に正しいものかどうかについての判断は行わない。)
上記引用内での「一部の農家の人々によって信奉,実施された。」という書かれ方を見るに、日本国内ではあまり普及しなかったばかりか、採用した農家も奇異の目で見られていたのかもしれない。
また、最近では稲作をリアルに再現したことで話題になったビデオゲーム「天穂のサクナヒメ」のプレイヤーの間で、失敗農法として話題になったようだ。
サラブレッドの生産とミチューリン農法
ここからが本題で、コダマを生産した鎌田牧場とミチューリン農法の関係について記していきたい。
鎌田牧場について
コダマを生産した鎌田牧場の設立はかなり古く、明治40年、日本でのサラブレッド生産の黎明期から開業していたようだ。
鎌田牧場関係の馬で、現在でもその名を広く知られるのは、ウマ娘でも「シラオキ様」と神格化(?)されて名前が登場する、繁殖牝馬シラオキだろう。
鎌田牧場での供用時には、コダマとその1歳下のシンツバメという2頭のクラシック馬を輩出し、その牝系からはシスタートウショウ 、マチカネフクキタル、スペシャルウィーク、ウオッカといったクラシック馬が生まれている。先に引用した記事内に登場する鎌田正嗣氏は、この牝系から中山大障害勝ち馬のテイエムドラゴンを生産している。
1978年に刊行された「産経会社年鑑」には以下のような広告が掲載されている。
ダイコーターは1965年の菊花賞馬、ヒデコトブキは1969年の桜花賞馬、ベルワイドは1972年の天皇賞春馬である。これら生産馬の実績を見ても、非常に優れた生産牧場であったことが分かる。
この牧場の長い歴史に関しては、後に触れる牧場主・鎌田管仲氏によって「大地とともに 鎌田家の百年」(1984年)という書籍が刊行されたようだが、少部数の自費出版物と思われ、所蔵する図書館や、在庫のあるネット古書店が見つからなかったため、今回は確認することが出来なかった。
サラブレッド生産におけるミチューリン農法
ここからは優れた実績を持っていた鎌田牧場における、ミチューリン農法の実際について、記していきたい。
それにあたって、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる、「日本ミチューリン会」という団体が発行していた「ミチューリン農業」という会誌を中心に参照していく。
同会やミチューリン農法自体の消長については、以下の書籍が刊行されているようだが、未読。
一般誌で鎌田牧場とミチューリン農法に触れている資料として「週刊新潮」の1960年6月13日号が見つかった。
同号の「スナップ」というコーナー中、「日本ダービーの優勝馬」との見出しで、口どり写真とともに次の文が掲載されている。
鎌田牧場でミチューリン農法を採用していたことは、当時著名な週刊誌でも報道されていたことがうかがえる。「ヨガの秘法の馬版か」と書かれているあたり、科学的根拠のあるものとは見られていなかったのだろうか。
国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる、「ミチューリン農業」誌
に鎌田牧場が登場する最古の例は、第210号(1959年1月11・21日合併号)である。
この号では「ダービーに勝つ馬は寒冷条件で育てられる」と、翌年のコダマのダービー制覇を予言するかのような見出しとともに、鎌田牧場の鎌田管仲氏のコメントが掲載されている。
このコメントから、鎌田管仲氏がただ単にに農法としてミチューリン農法を採用しただけでなく、そのバックボーンにある社会主義思想への理解があった人物であることがうかがえる。この点に関しては次節で触れる。
さて、競走馬の生産の過程で、特別な農法を使うときくと、畜産農業の素人の筆者には、馬が普段食べる飼料や放牧地に生える牧草の育生というものが思い浮かんだのだが、鎌田牧場では馬そのものの育成においてもミチューリンの学説を応用していたようである。
「ミチューリン農業」第245号(1960年5月1日)では「コダマ号にさつき賞の栄冠」「ミチューリン学説を競走馬の生産に応用した最初の成果」の見出しとともに、その育成手法がまとめられている。
また、国会図書館デジタルコレクション内で発見できた、鎌田牧場とミチューリン農法の関係が記載された書籍では一番古い、「明日への農業と家畜」1955年5月号には鎌田牧場で撮影されたと思われる2頭の馬の写真に、以下のキャプションがつけられている。
また同じ時期に刊行された「農業北海道」誌には、「ミチューリン運動の発展 第二回北海道大会を顧みて」という記事内に「日高の競走馬に関する寒冷飼育について、浦河町の鎌田氏から解説があった」とある。この件については別刷のパンフレットとして配布されたという。(『農業北海道』7(5),北海道新聞社,1955-04. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2312565 (参照 2024-05-26))
コダマは1957年4月17日生まれなので「二月下旬~四月上旬に出産させ、幼児を寒冷条件で育てる」という条件には当てはまっていないが、すでに鎌田牧場でミチューリン農法が取り入れられてから生産されたことが分かる。
この、馬を寒い状態で飼育するという考え方は、ミチューリン農法の「春化処理」(ヤロビザーチヤ、「ヤロブ農法」の由来)の考えを家畜に応用したものなのだろう。
5月29日の日本ダービー直後に刊行された「ミチューリン農業」第248号(1960年6月10日)では「ミチューリン学説で育てたコダマ 日本ダービーに晴れの優勝」との見出しとともに、鎌田正氏と鎌田管仲氏の連名で感謝のコメントが掲載されている。(『ミチューリン農業』(248),日本ミチューリン会,1960-06. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2362262 (参照 2024-05-26))
「ミチューリン農業」第250号(1960年7月11日)には「コダマの勝利によせて」と題して、鎌田管仲氏による、以下の散文詩風の文章が掲載されている。
寺山修司はハイセイコーの引退に際して「さらばハイセイコー」という詩を発表したが、活躍馬の生産者が 、みずからの生産馬を題材にした詩を書いて発表したという例は、なかなか珍しいと思う。
「ミチューリン農業」第300号(1962年4月11号)では、巻頭に「名馬はミ主義から 高価なパンパスか 安価なクロレラか」という見出しで、鎌田管仲氏の署名記事が掲載されている。
パンパスというのは人工育草機のこと。鎌田氏は、自らの生産馬が出走した桜花賞を見に阪神競馬場へ行った帰りに東京に寄り、大井競馬場の大山末治調教師とともに馬事公苑内の研究所で、このパンパスの育草方法を見せてもらっている。
さて、ここで大山末治という、ハツシバオー、テツノカチドキといった地方競馬史上の名馬を手掛けた調教師の名前が登場する。
この人物とミチューリン農法には以下のような関係があった。
大山末治氏は大井競馬の調教師であり、中央競馬で天皇賞・秋を制覇したタカマガハラ号を生産した長野県の「霧ヶ峰牧場」の経営者でもあった。
そしてその牧場でもミチューリンの学説に従った環境が作られていたという。長野県は日本におけるミチューリン農法の発信地である。
ここで、鎌田牧場以外のサブレッドの生産牧場が「ミチューリン農業」に登場するわけだが、ここから6年遡って1956年刊行の「写真でみるヤロビ入門」という著書には、既に別の牧場の名前も挙がっている。
ダイナナホウシュウは1957年に皐月賞・菊花賞を勝ち、翌年には天皇賞・秋を勝利している。
つまり、「ミチューリン農業」第300号が刊行された1962年時点で、ミチューリン農法は、最低でも3頭のクラシック馬(ダイナナホウシュウ・コダマ・シンツバメ)、2頭の天皇賞馬(ダイナナホウシュウ・タカマガハラ)を生み出しているということになる。
前節に上げた鎌田牧場産のダイコーター・ヒデコトブキ・ベルワイドといった馬も同様の方法で育てられた可能性を考えると、その数はさらに増えることになる。マジかよ!!
「ミチューリン農業」第317号(1962年10月11日)では「ローレル国際競馬にタカマガハラ号が」という題の鎌田管仲氏の署名記事が掲載。(『ミチューリン農業』(317),日本ミチューリン会,1962-10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2362062 (参照 2024-05-26))
アメリカのローレル競馬場で開催されるワシントンDCインターナショナル競争にタカマガハラ号が日本の代表馬として送られること、前述した大山氏とミチューリン農法の関係、前年にコダマが招待されたが足の故障で不参加となったこと、が記されている。すなわちタカマガハラ号の挑戦には、ミチューリン農法で育てられた馬として、コダマのリベンジを果たす、という意味があった…のかもしれない。
ちなみに、タカマガハラの馬主平井太郎氏は、自民党所属の国会議員でもあった。
「ミチューリン農業」第401号(1966年2月・3月号)には鎌田管仲氏が北海道のミ(チューリン)大会で発表したという論文「競走馬の生産とミチューリン学説」が掲載されている。
「ミチューリン農業」第500号(1974年12月1日)には500号を記念したお祝いの文章の中に鎌田管仲氏の名前が登場する。(『ミチューリン農業』(500),日本ミチューリン会,1974-12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2362343 (参照 2024-05-26))
国立国会図書館デジタルコレクションで検索できた範囲ではこれが鎌田管仲氏の名前が「ミチューリン農業」に出た最後で、これ以降は「鎌田牧場」も含めて「ミチューリン農業」に取り上げられている例は見当たらなかった。
鎌田管仲と原田了介
つぎに、鎌田牧場の鎌田管仲氏と、一箇所引用内に登場した獣医師・原田了介氏について触れたい。
再度の引用となるが鎌田管仲氏は1959年の時点で
書いてあり、社会主義思想への理解があった人物と思われる。
軍国時代の1940年、すでに血統書中に生産者として名前が登場する鎌田管仲氏。(『馬匹血統登録書』第拾五卷,日本競馬会,昭和15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1869394 (参照 2024-05-26))
氏と社会主義との接近については、おそらく、前の節での引用内に「獣医で馬の伝染性貧血症と戦っているミチューリン主義者」として紹介されている原田了介氏が関係していると思われる。(このあたりの事情も「大地とともに」を読めば書いてあるのだろうか?)
以上、長くなってしまったが、北海道民医連という団体のサイトからの引用である。この引用したテキスト自体は「【『浦河診療所創立30周年記念誌・明日の医療をめざして』、『ともに生きて 原田了介の生涯』、インタビューなどで構成しました】」とのこと。
これらの記述からもうかがえるように、終戦直後の時点で既に原田氏は日本共産党員であった。
「室蘭地方発達史 下巻」(1952年)には、1947年4月30日の第1回道議選に「共産党を名乗って獣医師の原田了介が出馬した」とある。
ちなみに、この道議選には、後に中央競馬の調教師としてニホンピローエース、テンポイントを手掛け、アイヌ民族の運動家としても活動した小川佐助氏が出馬し、3412票を獲得するも落選している。(谷村金次郎 著『室蘭地方発達史』下巻,室蘭民報社,昭和27. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3452403 (参照 2024-05-26))
北海道地方史研究 (77) (1979年6月)によると、1949年時点で、原田氏は「共産党日高地区委員長」というポジションである。(『北海道地方史研究』(77),北海道地方史研究会,1970-06. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2205263 (参照 2024-05-26))
その原田氏と鎌田家に関しては、以下のような関係があったようだ
引用内での種畜牧場というのは日高種畜牧場のことで、現在跡地はJRA日高育成牧場となっているようだ。
前節でも引用した「ミチューリン農業」第245号(1960年5月1日)では、鎌田氏とミチューリン学説の出会いが以下のように記されている。
菊池謙一氏というのは日本共産党の農村運動家である。また、前節で引用した『写真でみるヤロビ入門 : 作物別のやり方と標本写真集』の著者でもある。
ここまで何度も引用した「ミチューリン農業」は、日本ミチューリン会の会誌。
これらの関係からも推測できるように、ミチューリン農法の競走馬生産への応用に熱心だった鎌田管仲氏もまた、日本共産党員であった。
「北海道年鑑 1970年版」(1969年)には浦河町会議員として原田氏、鎌田管仲氏の名前がある。「北海道年鑑 1971年版」(1971年)には原田氏の名前が消え、鎌田管仲氏の名前のみ町会議員として記載されている(所属政党名は記載なし)。
(『北海道年鑑』1970年版,北海道新聞社,1969. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3002734 (参照 2024-05-26)、『北海道年鑑』1971年版,北海道新聞社,1970. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9490543 (参照 2024-05-26))
「日共・民青 : 研究・調査・対策の手引」(1971年)という、大変香ばしい感じの書籍中に、日本共産党の国会・地方議会の党議員名簿があり、その中に鎌田管仲氏の名前があり、氏も 日本共産党員であったこと、昭和42年4月に256票で当選したこと、浦河町には氏の他に2名の共産党議員がいたこと、がわかる。(『日共・民青 : 研究・調査・対策の手引』,日本政治経済研究所,1971. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11926504 (参照 2024-05-26))
このうちの1人、坂東甚氏は「前衛 : 日本共産党中央委員会理論政治誌 12月臨時増刊(1991年12月)」に日高地区委員長の肩書で登場。馬産地ジョークを連発している。(『前衛 : 日本共産党中央委員会理論政治誌』12月臨時増刊(614),日本共産党中央委員会,日本共産党中央委員会出版局 ,1991-12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2756047 (参照 2024-05-26))
おわりに
今回はダービー馬を輩出したサラブレッドの生産牧場とソビエト連邦発祥の農法の関係について、ネットのみの調査ではあるがまとめてみた。
最初はネットの調査だけでこの件についての関心は満たせるだろう、と思っていたが、調べれば調べるほど「大地とともに 鎌田家の百年」が欲しくなった。
日本競馬における馬主というのは基本的に、資本主義の世界において成功を収めた資本家であり、ダービー馬を持つということは資本家にお金以上の名誉をもたらすものであろう。
この記事内でも名前を挙げたダイナナホウシュウの馬主、炭鉱王の上田清次郎と鎌田牧場産のダイコーターをめぐる有名なエピソードはその一例だろう。
そんな日本競馬の頂点に立った、コダマという競走馬の生産過程において、社会主義イデオロギーの影響を色濃く受けた理論に基づく農法が応用されており、なおかつ生産者は日本共産党員であったという。
そして、"天皇"を冠する大レースを征した、ダイナナホウシュウ・タカマガハラも、同じ農法で育てられていたというのは、面白い事実だと思う。
更新履歴
2024/05/26 「週刊新潮」「農業北海道」の記事の内容を追加、国会図書館デジタルコレクションのリンクを修正