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普遍的な知識へ

【共通認識への疑義】

スミスが見る赤色とジョーンズが見る赤色は、実際には同じように見えていないかもしれない。この疑念は、個々人の感覚経験が本当に他者と一致しているのかを問う、いわゆる「クオリア(質感)」の問題に通じる。私たちはそれぞれの視覚体験を直接他者に確認することができないため、この問題はいつも残り続ける。

スミスはジョーンズがどのように赤色を見ているかを確認することはできないし、ジョーンズも同様だ。しかし、スミスとジョーンズには「相手と同じ見方をしている」という信念がある。この信念は、単なる主観的な感覚ではなく、もっと深いレベルでの共通認識に基づくものである。

【主観的信念と客観的信念の違い】

この点で重要なのは、単なる主観的な信念と客観的な信念の違いだ。主観的な信念とは、他者との共有が不可能な個人的な感覚に基づく信念である。たとえば、スミスが「私は赤色をこう感じる」と思う場合、それは彼個人の経験に基づいており、他者と比較することができない。逆に、客観的な信念とは他者と共有され、対話を通じて確認可能な信念だ。「赤色は波長が約700nmである」といった科学的事実は、誰もが同じ基準で確認できる客観的な信念の例である。

スミスとジョーンズが持つ「赤色を同じように見ている」という信念は、どちらかというと客観的な信念に近い。これは、単なる個人的な感覚に留まらず、対話や検証を通じて他者と確認可能な形で存在しているからだ。では、このような信念がどのように形成され、単なる主観的信念と異なるのか?

【言語と信念の修正可能性】

信念が「可疑的であり、言葉として相手に開かれている」という要件はここで重要になる。この「可疑性」とは、信念が絶対的ではなく、他者の反論や修正を受け入れる余地があることを意味する。言葉を通じて信念が表現され、他者と共有されることにより、その信念は他者の視点によって確認されたり、修正される機会を持つ。たとえば、スミスが「この色は赤だ」と述べたとき、ジョーンズは「私もそう思う」または「そうは思わない」と返すことができる。言語を通じたこのやり取りが、信念の修正可能性を保証し、信念が単なる主観的なものに留まらないようにする。

言葉が重要なのは、信念が言語を通じて初めて他者に伝達されるからだ。もし信念がただ個人的な感覚に留まり、他者との言語的なやり取りがなければ、その信念は他者に対して閉じられたままであり、修正や検証の余地を持たない主観的な信念に留まる。それゆえに、言葉を通じて表現された信念こそが、他者と共有され得る客観的な信念の基盤となる。

【信頼と信念の形成】

しかし、言葉のやり取りだけでは信念の共有は完結しない。信念が共有されるためには、相互に信頼が必要である。もしスミスがジョーンズの発言を信用しなかったり、ジョーンズがスミスの言葉に懐疑的であれば、彼らは信念を共有することが難しくなる。信頼関係がなければ、言葉が虚偽や誤解を生む可能性が高まり、信念の共有プロセスが崩れてしまう。

たとえば、スミスが「この色は赤だ」と言っても、ジョーンズがスミスの言葉を信じない場合、その信念は共有されず、客観的なものとして成立しない。また、ジョーンズがスミスに対して虚偽の発言をするなら、信頼が失われ、どんな信念も疑わしいものとして捉えられることになる。このように、信頼が信念の共有プロセスを支える基盤となっている。

【虚偽と信頼の破綻】

さらに、信念の形成において虚偽が入ると、信頼関係が大きく揺らぐ。たとえば、スミスがジョーンズに嘘をついた場合、ジョーンズはその後のスミスの発言を信じなくなるだろう。このとき、彼らは言語を介して信念を共有することが難しくなる。

しかし、興味深いのは、必ずしもすべての虚偽が信頼を破壊するわけではないことだ。ある種の虚偽は、たとえば社会的な礼儀や緊張を緩和するための嘘である場合もある。そのような場合、虚偽は信頼をむしろ維持する役割を果たすことさえある。この点で、虚偽の種類や文脈によって信頼がどう影響されるかを考えることが重要である。

【終わりに】

普遍的な信念の形成と共有には、言語を通じた修正可能性と、互いに対する信頼関係が不可欠である。言葉を介して信念が他者に開かれていることで、その信念は単なる主観を超えて共有可能なものとなり得る。

また、信頼が言葉の真実性を保証し、信念が共有される基盤を提供する。虚偽が入った場合でも、信頼関係がすぐに破綻するわけではなく、その虚偽がどのような文脈で生じたかによって影響は異なる。このように、信念の共有は単に言葉を交わすだけでなく、相互信頼に基づく複雑なプロセスである。

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