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ずっとできなかったこと 2025/02/02 -3
最近、ずっとスイートピーが気になっていた。
たぶん、前からすきだったけど、何となく、上手く気付かないようにしてしれっとすきから遠ざけていたような気がする。
こういうことだよな、と思う。わたしにとって、ずっとできなかったこととは、すきなものを堂々と、胸を張ってすきっていうことだ。
え、すきって言ってるじゃん、と思われる方もいらっしゃるかもしれない。そして、わたしもそう思う(笑) 結構簡単に、すきって言ってるじゃん、と。
わたしがここに書きたいすきは、言葉にしてこなかったすきのことだ。言葉にしているすきは、許可の降りているすきだ。
許可って?
・・・ここでわたしが使っている許可の意味は、言ってもいいということ。言っても問題ない、問題なかった、人が傷つくことが少ない(という統計がでている/自社比)、誰か(なるべく有名な人)が言っていた、市民権を得ている、既にみんなが知っている。意識していること、定義付けていることの全ては網羅できていないが、こういうニュアンスのことを1つまたは1つ以上を満たしているもの。そういうすきは、行ってもいいすきだから、どんどん言えばいいと思っているからどんどん言っているし、言ってきた。
すきといわれて嫌な人はいない。
言い方さえ、伝えるタイミングさえ、間違わければ。
※ もちろん、100%はないので細心の注意を払った上で
幸い、その辺りの感性は比較的持ち合わせていたこともあり、ひととの間にたくさんすきを見つけてきたし、探すのが上手くなったと思う(もちろん、失敗もたくさんしている。だから定義とか意識してることは増え続けていた)。でも、それがわたしの内側のすきと繋がっているかは長い間不問にしてきた。そこを繋げるのが怖かったのだ。怖いと認識するのが怖いくらい、知りたくないくらい、それが強すぎて逆にナチュラルすぎるくらいナチュラルに遠ざけてしまう程に。
なぜなら、自分が傷付くからだ。
そして、巡り巡って大切な人が傷付くからだ。
わたしにとって、自分のすきは、自分を、そして大切な人を、傷付けるものだった。
たとえば。すきって言おうものなら、片っ端から取り上げられるような気がした。すきっていっても、わかってもらえない気がしたし、実際わかってもらえなかった。すき=わたしの大切なもの/かけがえのないものなのに、邪険に扱われた(気がした)。そういうことが積み重なったということがひとつ。
もうひとつは、すきを認めたら好き以外を受け容れられなくなると思っていたから気付きたくなかった、というのがある。すきを認めると、自分の中の平等性が保てなくなると思っていた。平等性はわたしにとってかけがえのないもので、わたしそのものともいえる性質で、以前のわたしにはそのふたつが共存できるとは到底思えなかった。わたしにとってすきとは偏りであり、平等性とは偏りのないものだったからだ。例外は無いし、自分事が何よりも自分に影響を与えてしまうことは、意識する必要がないくらい自分が1番知っていた。偏らないことでバランスを取っていると思っていたわたしは、わざわざ偏らせてしまう要素をたとえ自分とはいえ受け容れることを、何ならそれが発生する可能性から全て避けた。
さらには(まだあった)、わたしのすき(すき/興味の対象/ときめくもの)はどんどん変わる、というのがあった。移り気というか素直すぎるというか単純というか何ならバカなのか見境がないのか(あえてネガティブな言葉を並べてます、そう認識して否定してきたので)、ずっとすきとかなかったし、気が変わる自分を自分で受け容れていなかった。そういうのはダメだと思っていたし、変わらないことに価値を置いていたし、そういう意味でも一途なところがある自分のことをすきだったりもしたから、同じように自分の中に存在するその真逆の質に触れたときに自分でも酷いと思うくらいにドン引いてしまった。おかしいんじゃないか、おかしくなったんじゃないか、自分はどうしたんだろう、こんなのはわたしじゃない。そうやって、ミーハーな自分を拒絶した。
わたしのすきには一貫性がない。今なら、「それは今ここの自分に忠実ってことやん!めっちゃいいねっていうかそれでこそわたし!ずっとすきなものはすきだしね、両極端な質があるって本質的でほんといいと思う!」くらいはすらすら出てきて、そのまま自分を承認できるけど、昔のわたしにはそれは到底無理で、まるで時代劇かのように心の襖がものすごいスピードでいくつも(ほぼ同時に)閉まった。そこから、持続的にすきなものと、刹那的にすきなもの、の間に共通項があることが分かり、今はその閉ざされた襖はおそらくわたしに対しては開いているんじゃないかと思う。
・・・ということで、何が書きたかったのかというと。
わたしは、わたしの中の感性をずっとコントロールしてきていた、ということ。許されないと思い込んできたこと、何なら罪である、くらいの圧をもって、自分に対してすきとか心地良さを許してこなかった、ということだ。それを許すことは、わたしがわたしじゃなくなることで、そんなことをしてはいけないと思っていた。実際は真逆なのに、ずっとそうやって自分を閉じ込めてきていた。
だからこそ、見つけられたわたしがいるし、そのわたしが見つかったからこそ、もう一度自分のすきをみてみよう、カタチにしてみよう、・・・カタチにしてもらおう。
☼☽
そんな理由で、今回偏愛マンダラ絵師のAKIEさんに、偏愛マンダラ®を描いていただきました。ずっと、申し込みます詐欺をしていて(苦笑)、申し込みたいと思ってから実際に申し込ませていただくまでに軽く2年くらいかかってます。2024年の年末、山羊座新月の前日のタイミングで思い切って申し込んで、納品されたのが2025年の節分(02/02)の今朝でした。
わたしが1番に思ったことは、あんなに晒すのが怖いと思っていた自分と自分のすきは、"ただひたすらに美しい" ということでした。自分の中からじゃなくて、AKIEさんを通しての表在化だったのが本当に良かったんだと思われます。他者が介在する/してくださることで、主観がいい意味で失われると同時に、わたしだけの偏りによる、主観すぎることによるズレた美しさでは無いことが、納品された時点で既に証明されているから。
堂々と、胸を張って、わたしのすきを、すきということ。
それが、月星座が牡羊座で、金星星座が乙女座のわたしにとってのよろこびであったということに気付いて、心から感謝しています。ちなみに、ハウスもめちゃくちゃ関係あるけどそれはここでは内緒にしますね!
わたしのすきとは何か?
それは、偏愛マンダラジオの中でものすごい勢いで話しておりますので(というかvibesがある意味そのままそうだと思われます)、是非OAされた配信をお聴きください。
☞ 偏愛マンダラ® のお申し込みはこちらから!✨️
(2025年02月分は今日までのようです☺️🙏🏻✨️)
☼☽
わたしのすきは、誇っていいものだった。
わたしの感性は、かけがえのないものだった。
自分の中にあった、ひとりでは埋められなかったし埋めることなんてできるはずのない尊厳を、ギフトとして届けていただいた気持ちです。
本当に、ありがとうございました✨️🌙\(^o^)/🤍✨️
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2025/02/02 -3 (301/366-2024 023/365-2025)
以下の2つのnoteも偏愛マンダラ® と関係ありますので(笑)、よろしければご一読を!
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