過去との対峙 2024/09/14
タイトルの力、つまり言葉の力とは偉大だ、と改めて思う。サムネイルの画像と、タイトルの言葉の掛け算で、なんだかとても深刻そうに見える。
否、深刻なことに違いは無いのだが、それにしても何だかものすごく深刻そうだなぁ、と少し茶化す自分がいる的な話だ。
因果応報。後に回したツケというのは必ず回って来るのだと思うし、実際これまでも何度もそれは感じてきたが、再浮上していることに対して、こんなにも因果応報みを感じたのはこれが過去最高であるかもしれない。
比較に意味は無いと思うが、それでもそれなりの意味はあると思うし、でもそのときの自分の考えられる範囲で考えた比較に果たしてどこまでの客観性と信憑性があるのかと考える。そんなものはないかもしれない。しかし、ないから意味が無いわけでもないと思うし、でも意味が無いならその意味を問うてしまうのがわたしだったりもする。
ホテルを出る前に時間が用意されたので、起きて直ぐにタイトルとサムネイルだけ記しておいたnoteを埋めることができている。天の采配に感謝。したいことは決めておけばできるような状況が用意される。決めることは設定することで、設定したことに世界は呼応する。内側の現れが外側なのであるから、決めたこと×邪魔の少なさ=現実化の速さであり、確実さであると思う。
つまり、今わたしが対峙しているとタイトルに書いた "過去" も、「これこれこういう条件が満ちたときに再浮上する」ように設定されていたということだ。たぶんこれは、その出来事が起こるさらに前、もっと正しく言語化するならば、今世生まれてくる前。・・・その前のいつかのタイミングで、死ぬ前に決めたことでもあるかもしれない。
ここにいるが、ここにいない。でも確かにここに存在しているわたしと、かつて存在していたわたしと、これから存在していくわたしの交差点に今いて、そしてその今はこれまでもこれからも続いてきて続いていく刹那のその瞬間で、それはわたしがいつどこにいても変わらない(らしい。)。でも、その中でおそらくわたしが、そしてわたしの魂が囚われていることがあって、そのひとつを今、抱きしめようとしているらしい。
それだけわかっていれば、未知は既に既知なのかもしれない。恐れなどは今ここにしかなく、或いは過去のその時点にしかなく、それが繋がり続けてエネルギーがループしている(解放されない)ポイントがあるということ。その結び目を解放することが、それを含めた全体を抱きしめるということなのだ。
2024/09/14 (200/366)