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切なさと憧れと超越と満たされると 2024/04/21
不意に、久しぶりに、漢詩なぞに触れる機会が訪れた。わたしは以下に紹介する漢詩が好きなのだ。
江碧鳥愈白
山青花欲然
今春看又過
何日是帰年
江碧(こうみどり)にして鳥愈(とりいよいよ)白く
山青くして花然えんと欲す
今春看(みすみす)又過ぐ
何(いづ)れの日にか是(これ)帰る年ぞ
昨日の夜、スタエフで話してたら不意に漢詩に触れることになった。最初に浮かんだのが上述の漢詩(杜甫の絶句というもの)だったのだが、話してみたらなぜか以下の漢詩になってしまったので、移動中に調べ直してみた。
春眠不覚暁
処処聞啼鳥
夜来風雨声
花落知多少
春眠暁を覚えず
処処啼鳥を聞く
夜来風雨の声
花落つること知る多少
下のもすごく好きなのですが、やはり上の方が好きだなと思った。ただ、好きな理由は共通で、その好きな理由(感覚)をより強く深く感じられるので上が好きということらしい。
ちなみに、杜甫の絶句は、わたしが覚えているのと読み方が違った。ざっと調べてみたところ最後が、「何(いづ)れの日にか是(これ)帰年(きねん)ならん」と書いてあるページが多かった。
なんとなくだけど、わたしは自分の記憶の中にある「何(いづ)れの日にか是(これ)帰る年ぞ」の方が好きなのでそちらを採用して紹介してみた。わたしは「いつ帰れるんだろう(その時は訪れるのだろうか)」っていう遠くをみる感じの空気感が好きだったんだなとじわじわ思い出して感じ入っていた。そして「だったな」と書いたけど今も好きだなと思った。
ちょっと切ない感じというか、懐古する感じというか、欲しいものは遠くにあって手に入らないというか・・・でもそれをほしいと思っている自分を少し距離を置いて観察している感じ、敢えて冷静にあることで感情を感じすぎないようにする感じ、その切なさのような絶望しているのに諦めている感じの何ともいえない気持ちが好きらしい。
そういえば、今日わたしが1日を通して感じていたのはこういう気持ちだった気がする。ただ、あきらめるの意味が明らかに違っていて、今ここにいるわたしの中にあるその気持ちは、「明らめて」いるのであって「諦めて」はいないとおもった。むしろ自分の手の中に確実にあるその気持ちをじわじわと深めている感じ。ああ、わたしはここまできたんだな、ここにいるんだな。そう思って、また何ともいえない気持ちになった。今ここにある切なさは手に入らないから感じるそれではないのだと思ったら、わたしの中の切なさのようなこの気持ちの定義が自然と書き変わった気がした。
ハルカトオクにあるそれを切望する気持ちは、今ここにいるわたしと繋がることと同じだった。
2024/04/21 (111/366)
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