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移り気な自分 2024/03/23 -2
突然だが、わたしは移り気だ。飽きっぽいというよりも、たぶん移り気といったほうが適切だと思う。移り気なので、気が移りゆく前にその気になっていることを味わったり堪能したり行動したりしないといけない。でないと、いつ次の気に移ってしまうかわからない。なぜなら、わたしは移り気だからだ。
昔むかしのずうっと昔は、わたしは一本気であることを良しとしていたのでそれを目指していた。目指す時点で一本気ではないのではと今なら冷静にそう思えるのだが、そう思っていたころのわたしは今よりはるかに頭が固く、色んな意味で経験が浅かった。
わたしは移り気という一本気の持ち主なのだ。そのふたつの最大公約数のところにわたしがいるのだと思う。それと同時に、移り気のみで構成されるわたしと、一本気のみで構成されるわたしがいる。なぜなら、本当に「これ」とハマったものに関しては半永久的に "そう" なので、その感覚のことは一本気と呼んでもいいような気がするからだ。そして、半永久的に、という表現(永久に、と言い切らないあたり)に、移り気の基質をたゆたわせているあたり、確実に移り気であるなぁと思う。
実は、そういう自分にずっと罪悪感があった。興味の対象がコロコロ変わったり、言ってたことが前と違ったりすることは朝飯前で、きっと周りの人からしたら「この人頭おかしいんじゃないか…」と思われることもしばしばではないか、と密かに恐れている(でも恐れているだけで変わる気はさらさらない)。最早「恐れているというてい」をとってそれを免罪符にしているのではないか疑惑が誠しなやかに浮上している。そしてきっとそうだろう。なぜなら、移り気とは移り気であるけれど、そこにある気自体が曖昧なものというわけではないからだ。グラデーションに見えるレベルの重なり具合で、次から次へと気が移っていくだけなのだ。
だから、普遍で不変のものに出逢うととても嬉しい。何千年前からある遺跡なんて、そこにかつて流れていた時間~現在に至る全ての時間についつい想いを馳せて、その場に熔けてしまう。目に見える世界のなかにある見えないものに溶けることは、わたしにとって私にとって至福の感覚だ。
カチッ、と電気を消すように、わたしの気は消えて次に移る。消したことに罪悪感は無い。消えたことで自分がいなくなることもない。前の気が消えても、次の気がある。前のわたしがいなくなっても、今、今を生きているわたしがここにいる。
2024/03/23 -2 (85/36)
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