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なぜ人は言の葉を紡ぐのか 2024/04/05

なぜ人は言葉を紡ぐのか。
なぜ人は言葉を使うのか。
なぜ人は言葉を話すのか。
なぜ人は言葉を理解しようとするのか。
なぜ人は言葉を学ぶのか。
なぜ人は言葉と共にあるのか。

ふと(わたしの日常の中にはふとがとてもたくさんあります)、浮かんだ疑問わたしへの問いかけ。ふと浮かんだのに呼応するように、同じ熱量で軽やかに内側に響いたその音は、「繋がりたいから」だった。目的語或いは主語はもちろん、「人(と)」である。あまりにすぐに、そしてあまりにまっすぐに、更にはあまりに簡単に出てきたのでそれだけでいい?とさらに問いかけてみたけれど、特に何も出てこなかった。答えはシンプルだった。

言葉といえば、英智といえば、バベルの塔の話が有名な気がする。タロットカードの「ⅩⅥ 塔」に描かれているのもバベルの塔だとか。人は、知りすぎて傲慢になって分不相応になることと悟りを間違えたから、それは神の領域を侵すことになって、だから神によってバベルの塔は破壊されて、言語言葉はひとつじゃなくなって、世界に言語が散らばって、言葉が通じなくなったのだとざっと理解しているのだが(違ったらすみません)、そもそも人と繋がるために言葉というものは存在しているのだと思った・・・ので、バベルの塔の話を思い出したのでそのままここに書いてみた。神と繋がるのに言葉はいらないんじゃないかと思う。それは、かつても今もそして未来も関係なく、そうなんじゃないかと思う。

ただ、人は人と共に生きている。人だけならず、この世界に生きる全ての存在ともに生きている。その中で特に、人と話しをするとき、つまり人と繋がるときに、言葉というもので個を個を媒介する。言葉は、それ自体が媒介訳でありツールであり、それを扱う人のことを象徴するものでもある不思議な存在なのだと思った。

言葉についてはいろいろnoteを書いてきたけど、今日がこれまででいちばん軽やかに言葉のことを言葉で紡ぐことができたような感じがしていて、それはわたしにとって、とても嬉しいことだと感じた。



2024/04/05 (95/366)


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