服にすら囚われている 2025/01/27
衝撃的な気付きがあった。
ここ数日は怒涛の気付きで雪崩が起きており、最早わざわざ衝撃的というのもなぁという感じであるのだが、気付き自体はどれも衝撃的であるのでやはりそう表現するしかない。
「(こんなにくるんだったらいっそ)もうどこまででもこい!」と思い残すことはもうないレベルで腹を括って待っていたら、それはするするとまたやってきた。
服にすら、囚われている。
今日、出かける予定があり移動しながら必要なものを購入するためにとあるお店に立ち寄った。
そこで、鏡を見て思ったのだ。
何を着ていても、キレイなお姉さんじゃない?と。
一般的にどうか、とかではなく、わたしの中の「キレイなお姉さん」というイメージを、わたしは既に満たしている/いた、という気付きだった。
すんなりそう思って、すんなりし過ぎて取りこぼしそうだった。そのくらい、当たり前なのであろうと思う。なのにずっと、そこに×を付けてきていた。
そして、何を着るか、というか着るものにめちゃくちゃ囚われていた自分に気付いた。
'こういう服(デザイン)を着ている人はこういう人'
'こういう服(価格帯)を着ている人はこういう人'
'こういう服(デザイン)を選ぶ人はこういう人'
'こういう服(色)を選ぶ人はこういう人'
'〇〇〇な服を△△△な人は□□□'
最後はあえて異なる記号で書いたが、これは全部〇だったり、部分的に共通したり、更には☆☆☆だったり♡♡♡だったり、バリエーションは無限にある。
この方程式に'則って'、いや"乗っ取られて"、わたしは服を選んでいた。相応しくない、似合わない、こういうのを着るとこう思われる、このくらいの感じの服を着ていないとこうおもわれる、etc... 書き始めたらキリがない。
服とわたしは関係なかった。
わたしはわたしだった。
わたしがわたしになれる服を、わたしがわたしで在れる服を、わたしが嬉しくなる服を、わたしがときめいていられる服を、着ていてテンションが上がる服を、ただルンルンと着ていればいいのだ。
それは、わたしという存在の在り方と大きく繋がっている。上述の方程式で、わたしはわたしの在り方を何重にも何重にも縛り付けている/いた。
何を着ていてもわたしなのであるから、何を着ていてもいいのだ。
人にどう思われてもいい。だって、わたしは今ここにいるわたしが着たい服を着ているだけなのだ。そしてそれがわたしなのだ。わたしは、誰かに〇〇〇に見られるために、服を着ているのではなかった。でも、ずっとそういう風に思っていて、支配されていた。
「こうあるべき」が強すぎるな、と色んなところで思ってきたが、どこまでもそうであるなぁと笑ってしまう。でも、気付く度に、より軽やかに自分であるを体現できるようになっていくだけなのだから、楽しんで気付いて、軽やかに手放していきたい。
なにを着てもキレイなお姉さんとか図々しいが、もう仕方ない。だってそうなのだ。そうでしかないのだから、そう在ればよいだけなのだ。
服にすら囚われている、と書いた。
そうであるが、そうじゃない。
わたしが囚われていたのは、「人にどう見られるかに囚われているわたし」にだった。「わたしがどういう人であるかよりも、人にどう見られるかを大切にしているわたし」にだった。
そんなものはどうでもいい。
結局、「人の目を気にして自分で在ることを選ばないわたし」に囚われている(良くも悪くも気付きたくない)ということを、一件美しくなることを拒否しているかに見せかけて、良い部分も悪い部分も分け隔てなく都合よくカムフラージュしていただけだ。
そういうのが全部なくなって初めて、ただ自分で在るための服を着られる。つまり、自意識過剰に避けてきた本当は似合う服を、ちゃんと選べるようになるし、堂々と着れるようになるのではないか、と今のわたしは推測している。
蛇足かもしれないが、ここまで書いてきて、「外見は1番外側の内面である」というような意味の言葉が、昔読んだ本に書いてあったのを思い出した。そういうことか、と思った。
最後にもう一度書いておく。
なにを着てもキレイなお姉さんとか図々しいが、もう仕方ない。だってそうなのだ。そうでしかないのだから、そう在ればよいだけなのだ。
2025/01/27 (294/366-2024 016/365-2025)
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