声劇はカラオケのようなものだという見解をライターから見たときの話

「声劇はカラオケのようなものだ」という見解がありまして、その場合ライターというのはどういう立場の人なのだろうか、ということをぼんやり考えているお話です。


前提:声劇とは

すごくざっくり言うと、「オンラインで通話できるシステムを用いた、声だけで演じる劇」です。
オンラインで通話できるシステムであれば良いので、古来からはMessengerやSkype、最近はDiscordなどを使ったり、配信アプリのコラボなどで声劇自体を配信したりなどしています。

「声劇はカラオケのようなものだ」

さてこの声劇ですが、「『劇』と付いているからには上演している様子を観劇している観客がいる」かというと、そんなことはありません。
上記の通り配信アプリを使用せず友人との通話アプリだけで声劇を行う場合、観客が居ないまま演じることは普通にあります。むしろ配信環境が今ほど充実する前はそちらのほうが主軸だったのではないでしょうか?詳しくないけど

「その場合は誰が楽しいの?」というと、演じている本人たちです。
自分がキャラクターになりきってカッコいいセリフを言う、共演者が演じるキャラクターのセリフやシーンを聞いて楽しむ、全員で協力して一つの作品を上演し、達成感を味わう、などなど、劇を通じてキャラクターを演じ、物語を演じることを楽しむことが主目的であり、そこに観客の有無はぶっちゃけ大した差じゃありません。

そこで本見出しに戻ってきますが、この楽しみ方はカラオケと似ている所があります。
一緒にカラオケに行く仲間が居るには居るものの、基本的には自分が歌うことを楽しみ、他人が歌っているのを(自分の選曲をしながら)楽しむ。場合によっては一人でカラオケに行き、ひたすら歌いまくる楽しみ方をするというのもあります。最近はカラオケ配信アプリもあるし歌ってみた投稿などもありますが、基本的にはカラオケを楽しむのに観客(聞き専)が居るかどうかは大した差ではありません。

「聞いてくれる相手が居なくても、自分たちが演じる(歌う)ことで楽しむことができる」
この点で「声劇はカラオケのようなものだ」という話になります。

過去の記事で「声劇台本のターゲットは「聞き手」です」と言ってしまっていましたが、上記意見をもとにすると考えを改めないといけないですね)

声劇とカラオケを似たものとした場合のライターとは

声劇とカラオケを比較してライターの立ち位置を明確化

では声劇とカラオケのパーツを照らし合わせていきましょう。

  1. 友人たちと[通話ツールや配信アプリで / カラオケボックスで]集まり、

  2. [上演する台本 / 歌う曲]を選び

  3. [上演 / 熱唱]して楽しむ

このとき、声劇台本ライターの立ち位置は「2.において上演する台本を提供する」ということになり、これをカラオケに照らすと「楽曲(インスト)の提供者」となります。
なるほどではあります。カラオケを歌うにも歌いたい曲が配信されていなければ歌えないのであり、声劇をしたくても台本が提供されていなければ上演することもできないのですから。

楽曲提供者との決定的なひとつの差

さて、声劇台本ライターを楽曲提供者とした場合に決定的に異なる点が一つあります。

楽曲提供者は、カラオケで歌う人のためには曲を書き下ろしていません。

カラオケで歌える楽曲は、プロあるいはそれに準ずる方(同人CDやVtuberの方も居ますし)が既に歌っているもの、いうなれば「本物」が存在しており、それをインストだけにしてカラオケに提供し、一般人である我々が歌うことができている、というものになります。作曲者はおおむね「本物」の方を対象にして作品を作っていることでしょう。

一方で声劇台本は、基本的には(※1)そういった「本物」は存在せず、逆に言うならば、台本を手にとり上演してくれた方々のすべてが「本物」となりうる、というものになります。
カラオケで言うなら「曲と歌詞は用意したので、誰か歌って!」という形で不特定多数に公開しているようなものです(※2)。
(※1:既に舞台やボイスドラマで「本物」を上演されている台本を一般の方々へ提供しているものもあります)
(※2:この立場の方は初音ミクの登場で大きく表に出られるようになりましたね。声劇台本もボイスロイドを使えばいいのか……?)

さて、この「『本物』が存在しない(上演してくれたすべての方が『本物』となりうる)」というのは、声劇台本の面白い点(様々な「本物」を楽しむことができる / 誰でも「本物」となることができる)であり、一方で声劇台本の厳しい点でもあります。

つまりは「上演されない場合は『本物』が存在しない」という事なのです。

これは小説などとも異なる点で、小説に関してはそれ自体が「本物」であり、あとは読者へのアプローチまで持っていければ良いですが、声劇台本の場合はまず「読者」へのアプローチを行い、それに加えて「読者」が「演者」になってくれることまで期待しなければならないという事です。
声劇台本の存在意義は、読んでくれることではなく上演されることなので。

あと時折話題になる「台本を大事に使ってくれない」という話についても、おそらく「台本を上演してくれたすべての方が「本物」となりうる」という点が巡っていって発生するものなのかなと思ったり。
台本を手に取って上演するなら、自分たちが「その台本を上演する「本物」である」という意識があると良いのかもしれませんね。

楽曲提供者側に近づくためにライターができること

「とは言っても上演されずにいるというのもしんどいが?」という気持ちもあります。
それを含めて声劇台本を楽しむ(やってやるぞってなれる)方は良いですが、そこがちょっと強くしんどい方は自分の立ち位置をちょっと楽曲提供者側に倒してみると良いのかなと思います。

楽曲提供者と声劇台本ライターとの決定的な差は「本物があるかないか」。
であれば、作ればよいのです。「本物」を。

では、声劇台本における「本物」とは何か。おそらくこれはそれほど難しいものではありません。
上でもちょっと書いたように舞台への書き下ろしやボイスドラマ用の台本作成というのもありますし、それが出来るなら万々歳であることこの上無しですが、舞台脚本書き下ろしはもちろんのこと、自身の声劇台本をボイスドラマにするのも相当骨が折れます。相当折れます。俺は編集側にも立ったことがあるので分かる。

自分が考える最も簡単な「本物」は、
「信頼できる友人を誘ってのテスト読み合わせ」です。

声劇台本よろしく観客は必要ありません。聞いているのは自分だけで良いのです。
自分が書いた台本、公開前の読み合わせと称し、キャラのイメージに合った友人を誘って読み合わせをお願いする。そこでの読み合わせ結果を持って、自分の中での「本物」とする。
読み合わせなのでそこで違和感とかがあれば修正してもいいし、そうでなくても少なくとも1回は信頼できる友人に上演されて、それを自分で聞くことが出来た、という実績は残ります。そして、おそらくそれだけで救われる気持ちは多少なりともあるような気がします。
とにかく1回テスト読み合わせをしてもらえれば良いので、友人を誘う代わりに読み合わせできる人を募集してみるというのも良いと思います。

おわりに

声劇がカラオケと似ているという点からライターと楽曲提供者を比較し、その違いとそこに対するアプローチについてのお話をしました。
ひとりでも多くのライター様が、たとえ辛いことがあってもできるだけ心と筆を折らずに素晴らしい作品を生み出してくれることを願って。

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