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でくのぼうの哲学
著名な宮澤賢治の詩である「雨ニモマケズ」にこんな一節がある。
ヒドリノトキハナミダヲナガシ 日照りのときは涙を流し
サムサノナツハオロオロアルキ 寒さの夏はオロオロ歩き
ミンナニデクノボートヨバレ 皆にデクノボーと呼ばれ
ホメラレモセズ 誉められもせず
クニモサレズ 苦にもされず
サウイフモノニ そういう者に
ワタシハナリタイ 私はなりたい
なにこの文章?
幼いころ、私も漏れなくこの「雨ニモマケズ」に触れた。
私は当時(小学1年生くらい)書いた人が何を言っているのかさっぱりわからなかった。
もしあなたも幼いころに読んだことがあるのならぜひとも少し時間のある時にその当時何を考えたかを思い出してほしい。
さて、当時の私はというと「なんだか強い人がいるな」という感想を抱いたこと。そして先の事に関連することとして「これ(デクノボー)の何がいいんだろう?」と考えていた。
前者に関しては『丈夫なからだ』や『味噌と少しの野菜を食べ』からなにか厳かな、質素な、山で暮らす仙人の境地に達した人をぼんやりと想像していた。
そして今回語りたいのが後者に直結することだ。
でくのぼうの何がいいのか?
最初に「雨ニモマケズ」を一部抜粋した中で『そういう者』という言葉が出てくる。様々な解釈は存在するのだろうが私はここでの『そういう』とは作者がこれまで述べてきた人物像すべてを指すと考える。
さらにここでは『そういう者』を「でくのぼう」と呼ぶことにする。
では、「でくのぼうと呼ばれる」とはどういうことなのか。
ここででくのぼうの意味を確認する。
① 人形。操りの人形。でく。でくるぼ。でくるぼう。
② 役に立たない者。役立たずの者をののしっていう語。でく。
『誉められもせず』と述べていることから②の意味も含まれていると考えてよいだろう。
この文章で私が言いたいこと。それは大人になった今では『でくのぼう』の良さがわかるということだ。
子供の時、私がでくのぼうの良さを理解できなかったのは、「欲望」を理解していなかったからである。支配欲、独占欲、性欲、社会的欲求などなど……
私はそれが自信の欲望であることを認識していなかった。
今では欲望を欲望として認識できるようになった。
つまり、欲望と距離をとることができるようになったというわけだ。
例を挙げるならば、あなたが働いている時、もうなにもかも捨て去って自由になりたいと思ったことはないだろうか。
もしあるのならばそれは社会的な欲望と距離をとることを意味する。また欲望のない世界を想像している。
欲望のない世界を想像できるのは欲望が欲望であると知ったうえでなせる業である。
結論
私が思うにでくのぼうの良さとは「他の尊重による調和」だと考える。これによって自己の負担となる無駄なエネルギーの一切を排除している。
人間のあるべき姿、理想像。人間の欲望を超越した境地。またこの理想と私の生きる日常との乖離がでくのぼうの魅力を一層引き立たせている。
過去に理解できなかったことが今ならわかる。こういったことはよくあることではあるもののとても貴重な経験である。
というわけで私もでくのぼうとして何にも動じず、役立たずとして生きていくよう努めたい。