「存在」が「自分」している
住宅地のど真ん中でも、少なくとも朝はほぼ「夏感」が消え、また半年以上暗い中でのワークアウトになるんだなぁと思うと、5時だというのに照りつける日差しとワシャワシャ騒がしいクマゼミの鳴き声が懐かしい朝。
昨日仲間に言われた言葉が少しショックで、頭の中で言葉がぐるぐる回ってるのを感じる。
「FactとEmotionは分離して考えないといけない」って頭でわかっていても、そして仲間たちにそう話をしてきても、結局自分ができていないんだよね。
ワラーチ仲間が18〜19世紀のイギリスの詩人、John Keatsのことば:
「I mean Negative Capability, that is when man is capable of being in uncertainties, Mysteries, doubts, without any irritable reaching after fact & reason.」
を教えてくれたけれど、なんかしっくりこない。
でも、妙心寺のお坊さんの法話にも出てきた「自分を外から眺める」という話や、お亡くなりになった稲盛和夫さんが紹介していた河合隼雄先生の「おはなし おはなし」の中の一説:
『おはなし おはなし』|感想・レビュー・試し読み - 読書メーター
「われわれは通常は自と他とか、人間とぞうとか、ともかく区別することを大切にしている。しかし、意識をずうっと深めてゆくと、それらの境界がだんだんと弱くなり融合してゆく。そして、一番底までゆけば『存在』としか呼びようのないような状態になる。そのような『存在』が、通常の世界には、花とか石とか、はっきりしたものとして顕現している。従って、われわれは『花が存在している』と言うが、ほんとうは『存在が花している』と言うべきである、というのである。」
のほうがしっくりくるかなぁって考えていたら、ちょっと元気でた。だから今日も1日一生懸命生きようと思う。
稲森和夫氏のご冥福を心からお祈り申し上げます。今日も皆さんにとって素敵な一日でありますように。