「女がミソジニストを教育する」というアイデアの問題について

先日「失言」で炎上した岡村さんに矢部さんがラジオで公開説教したということが今朝話題になっている。

最初に言っておくと、私は芸能界にかなり疎いので二人のことはほとんど知らないし、失言〜謝罪・説教という流れもTwitterで見たという程度にしか知らない。

その「公開説教」の文字起こしらしいものを読んだところ、矢部さんは岡村さんの思想の根底に女性に対する敵意や蔑視があるということを指摘し、それは岡村さんが女性と付き合ってこなかったからで、早く結婚した方がいいと言ったようだ。

この発言には私が見たところでも賛否評論の反応が上がっている。

確かに、私がざっくりと把握している状況から想像するに、岡村さんの「失言」は明らかに女性を「女」である前に同じ人間として認識して想像力と共感を持って接するということを長年怠ってきた結果出てきたものなのだろうと思う。
それはもちろん彼だけの問題ではなく、女を商品のように扱うこの世の中に蔓延るある種の価値観の問題でもある。

そして、おそらく、人付き合いというものは、他人を自分と同じ人間として認識し、思いやりを持って対等に接するということの訓練になる。
異性との恋愛ももちろんそうで、恋人との交際を経て、異性も自分と同じ人間であるということを知り、自分の中にあった偏見を手放すことができるということは実際に起こりうることではある。

矢部さんの言っていることは、この意味である程度正しいところがある。

でも、もう少し考えるべきところがある。
それは、
「女と付き合わないとミソジニストは更生できないのか?」ということと、
「ミソジニストと付き合って、彼を教育する女がどんな思いをすることになるのか?」
ということだ。

(ちなみにこの記事のタイトルから「ミソジニスト」という言葉を使ってしまっているが、これは女性を嫌悪、蔑視する人という意味で、男性とは限らない。
ここでは岡村さんをミソジニストとしている)

確かに岡村さんが女性と付き合ったり結婚したりすることで、これまでの考えを改めて女性と対等に向き合えるようになる可能性はある。

でも、そうしないと無理なんだろうか?

恋愛や結婚以外の、社会生活で関わる身の回りの女性たちとの、日常の交流の中でそれを学ぶことはできないんだろうか?

あるいは男性同士の学び合いの可能性はないんだろうか?
世の中には本や映画やドラマだってたくさんある。

こういうふうに考えるのには理由がある。
そういう男性と付き合って彼を「教育」することが女性に期待されることは、しばしば女性に苦痛を与えたり女性を危険に晒したりするからだ。

ディズニーの『美女と野獣』をご存知の方は多いと思う。
1991年のアニメ映画版が公開された時、フェミニストたちからはこの論点で批判が上がったのだ。

ベルは知的で賢く美しく優しい、勇敢で能動的な女性だ。このキャラクター造形はフェミニズムを意識して作られたものらしい。
そのベルは、わがままで怒りっぽく思いやりに欠ける野獣を見事に教育し、優しい王子様に変える。
多くのフェミニストたちが、そこにリアリティのなさと危険性を指摘したのだ。

実際には、女性を見下して対等に扱わない男性が、恋人に暴力を振るったり精神的苦痛を与えたりして、その振る舞いを改善させないことも多いだろう。
女性の側も、恋人がそのうち変わるんじゃないか、優しくなるんじゃないかと期待したり、彼を変えてあげないとと責任を感じたりすることも多いのではないか。

私は岡村さんがそうなると言っているわけではないが、
一般的に、女性蔑視の問題を抱えている人のケアを恋人や妻になる女性に任せようとする考え方にはある種の危険性があるのだということも、
認識する人が増えるといいなと思うのだ。

#フェミニズム #炎上 #岡村隆史

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