読書の話
子どもの頃、本を読むのが大好きだった。小説や伝記、図鑑や事典、ライトノベルや純文学などいろいろな本を読んでいた。
高校生以降、学校の勉強が忙しくなったこともあり本を読む冊数は減っていった。高校を卒業するころにはiPhoneを持つようになり、本よりTwitterやメールを読む時間が長くなった。大学生になると授業やレポートのために読む本が多く、趣味的な小説などの本を読む時間がなかった。
なんで子どもの頃あんなに本が好きだったんだろうと考えてみると、ゲームが買ってもらえず娯楽が少なかったというのは大きいが、同じくらいかそれ以上に、私にとって読書というのは自立の第一歩だったからなのではないかと思う。
私は科学図鑑などを読むのが好きで、読んで知ったことを親などに話していた。その都度親は感心したように「そうなんだ〜物知りだねえ」と言ってくれていた気がする。
今考えると子ども向けの図鑑に書いてある程度のことは本当は知っていただろうなとも思うけれど、子どもの頃の私はそれが嬉しかったのだ。自分の足で図書館の棚の間を歩き、自分で本を選び、読むことで、親や友達、先生も知らないことを知ることができるのだと私は感じていた。そういった感覚は今の私にも残っている。
今ではインターネットもSNSも幅広い世代に普及していて、親や友達、学校の先生以外から情報を得る機会は私が子どもの頃よりずっと増えている。私もネットサーフィンは小中学生の頃から大好きだったけど、家のデスクトップパソコンにかじりついていた私の頃よりも、今の子たちはスマートフォンやタブレットがある分アクセスは格段に良くなっている。
知識を得るルートは本でなくインターネットでも別に構わないのだ。(出どころや真偽の確かそうなものを見極める能力は本を読むときより求められるし、深く知ろうと思ったら本を読むしかないこともあるけど。)子どもの頃の私にとってはそれが本だったという話。
親や学校の先生が与えてくれるものから離れ、自分で興味を持ったものについての本を探しに行くとき、精神的な自立や自我の確立のレベルが上がったんじゃないかと感じる。
実写版『美女と野獣』でエマ・ワトソン演じるベルが「本が世界を広げてくれる」というようなことを言っていたが、まさにその感覚だ。
私は生身の人とのコミュニケーションが得意でないので、本を読むと目の前にいない人の話を、相手に知覚されずに、一方的に聞く(読む)ことができるという意味でも読書は好きだった。すでに死んだ人の話も聞けるし。
最近は昔ほど読めていないけど、私にとって本はずっと大事だったし、これからも当分は必要だろうなと思う。
出版社も本屋さんも図書館も、どうにか生き延びてほしい。どうしたらいいんだろうなあ。