「日本人とユダヤ人」講読
野阿梓
第十講 ヒルレル(6)
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以下(またしても)少し脱線しますが――、
七〇年前後に流行った映画、ジャン・ドラノワ監督「悲しみの天使(寄宿舎)」(仏六四年制作、日本七〇年公開)やリンゼイ・アンダーソン監督「ifもしも...」(英:六八年制作 日本:六九年公開)などを通じて、海外の「寄宿学校」という設定を獲た、当時、新進気鋭の少女マンガ家である萩尾望都や竹宮恵子ら諸氏は、そこに未だかつて誰も踏みこんだことのない世界を見ていました。彼女たちにとっての、「男子寄宿舎」における禁断の愛、それは従来までの少女マンガが描いていた、どこか西欧への憧憬をともなう欧風趣味といった枠を超えて、西欧文明の根底をなすキリスト教の罪と贖罪という、すなわちイエス・キリストが磔刑によって示した「他人のための購い」というテーマに鋭く斬りこみ、同時にまた「少女の少女による少女のための、男子同性愛」の世界を描く、という秀逸なるタブー侵犯をすることで、少女マンガ界に革命を起こすべき、甘美かつ必須なる「舞台装置」でもあったのです。
私が初めて萩尾さんの「ポーの一族」を読んだのは、七五年の一一月二五日でした。たまたま四回目の憂国忌だったので、よく憶えています。大学に入ってサークル活動をしていたのですが、先輩の女子大生から萩尾望都作品のことを教えられて、その頃はまだ女性ばかりの書店のコーナーに行く度胸がなかったので買ってきてもらいました。それでポーの一族を読破して、次はもう恥も外聞もなく、女子をかき分けて書店でトーマの心臓をまとめ買いした記憶があります。
これは、特に私が内気だったとかいう訳ではなく、当時はまだ、人前で堂々と男子学生が少女マンガを読むことは、かなりハードルが高かったのです。しかし作品の深みや厚みは、そうした羞恥心を突破する素晴らしさに満ちあふれていて、私はすぐにその世界に耽溺していきました。ちょうどその頃、萩尾さんが漫画賞を穫られたこともあり、SF界では、先行して川又千秋氏などが、成人男性が少女マンガを読む、という風潮が、たちまちのうちに広がったように憶えています。
そもそも、私が七〇年にロートレアモンなど異端文学に夢中になったのは、そこに仄かな男子同性愛、特に少年愛の要素を見出したせいでした。五年ほど遅れて、萩尾・竹宮作品に惹かれたのも同じ理由だったと思います。だからといって、当時、自分に同性愛的な性的指向があったのか、と問われると、すこし困惑します。単にそれが異端的だったから、ミッション校をドロップアウトしつつ、そこで教育された正統的なキリスト教に対する歪んだ反撥として、そういうものへと惹かれた、という見方でも間違ってはいないように思うからです。
しかし、現実社会では私はヘテロであり性自認はまちがいなく男性です。しかも同時に、どこかで少年愛的なものにも惹かれている。なんとも知れない矛盾ですが、性的指向とは、具体的な肉体のそれと、頭の中での想念とが、ねじれたり相反することはよくあるわけで、そうした心身の軋みのようなものが、愛読する作品に表れていったように思います。
さらに言えば、私は単なる「一読者」ではなかった、ということもあります。社会人になるとほぼ同時に、私はコンテストに入賞し、物書きとしてデビューしました。つまり、私が嗜好するものは、当然、私が描くべき対象でもあったわけです。
私がデビューした七九年頃のSF界は、なんというか、お上品に澄ました、セクシュアルな描写は、それに特化した大人向けの官能的な作品(小松さんの「エスパイ」等)以外には無いような、とても清潔な空間に見えました。だからということでもないのですが、私はSF作家になってからは、ずっとセクシーな作品を目指して、それは私にとって結果的に(後から振り返ると)、ちょっと「やおい的」な小説、ということになるのですが、そういう作品を書きつづけたように思います。それで、ジェンダーが曖昧なペンネームや、その内容のせいか、デビューしてしばらくは、私のことを女性作家だと思っている読者も少なからずいたようです。まあ、会えばすぐに判ってしまいますが。
そうした中で当然のように、私のSF関係の仲間の、特に女性の多くが、萩尾・竹宮作品のファンでもあり、だからこそ共に「やおい」に惹かれていて、ついには「やおいパネルディスカッション」などといったものを年次SF大会で主催することになるのですが、彼女たちも、では性的倒錯者か、というと必ずしもそうではない。微妙な個人的な事がらですから、それほど深く訊ねたことはありませんが、おそらく彼女たちの性自認は「女」だろうし、性的指向も異性で、ビアンはいないか、いたとしてもごく少数でしょう。単なる流行りすたりで飛びついた人だって多いと思います。
ただ、趣味嗜好がそうである、という以上に、彼女たちはいずれも意識が高く、LGBTのムーヴメントなどには積極的に賛同していました。そして「やおいパネル」をやっていく内に、成人マンガに鋭い批評を持ちこんだ永山薫氏や伊藤剛氏らと親交を結ぶことも出来ました。私の見るところでは、永山薫氏は私と同じ程度には自身の中にフェミニニティ(女性性)を持っておられるように感じましたが、あまり深く突っこんだ話には至っていません。この手の話は、突っこみ過ぎるとアウティング(ハラスメント)になりかねないので、要注意でもあります。
しかしながら、自分の内面を爬羅剔抉するのは非常に困難ですが、私自身もどこかにフェミニニティがないとは言えない。だが、おそらくそういう機会がなかっただけかも知れないが、これまでに女性以外に性的対象を求めたことはない。とはいえ、自分の周囲を見ると、必ずしも完全にノーマルな知り合いだけか、というと、これがそうでもないのです。実際、私はカミングアウトされたことがあるのですが、私のSF関係の友人で、実体験はないが、できたら受けで私に「抱かれて」みたい、といったことを酒席ではあれ、言われたこともあります。まあ、半分は冗談としても、それだけじゃなかった。
さらにもっと屈折した人もいて、彼は、見た目も完全に成人男性なのですが、実は、自分が可愛い美少年になって逞しく美しい青年に抱かれたい、という性的嗜好がある、とカミングアウトされました。さすがにこれは現実には実現できないので、結果的に妄想するだけで、やおい的な作品を読んだり書いたりするに留まっている、というのです。ことほどさように、人間の性的な欲望と本当の望みというのは、面倒くさいほどに錯綜しているものなのであり、私は、そういう迷宮に迷いこんで、自分自身は一体どういうことを本当に求めているのか、いまだに模索中というところであるわけです。
同性愛というものは、真性のそれから擬制的なそれまで様々です。男子寮とか軍隊とか僧院とか、極端なところでは牢獄とか、そういう異性がいない環境だと、ちょっとでも可愛い男子がいたら、それを擬似的な女性と見なして、可愛がる、という風潮は洋の東西を問わず、昔からありました。それこそ中世の修道院などでは、男性の修道院だけではなく、女性の修道院でも、同性愛、というものが密かに在った、ということが言われています。
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だからこそ、それは「罪」なのです。いくらなんでも、まったく「罪体」がない状況で、それを「禁制(タブー)」とすることは有りえません。古代のレビ記や申命記に、男色が禁じられてあるのは、そういうことをする人たちがいたからでしょう。それは遊牧民における獣姦も同じです。犯すべき「罪」は書物の中にあるわけでなく、現実の世界に肉体をともなって在るからこそ、「罪」であるのです。
英語で男色行為をソドミーと言いますが、これはロト記で有名な悪徳の都ソドムとゴモラの前者にちなむ言葉です。聖書を読むと、ソドムではロト以外の全ての住民は男色者と思われていたように思われます。モーセ五書には女性同性愛を罪と認める項目がない、とされていますが、これは、罪以前に、(かつてアドリエンヌ・リッチが言及したように)歴史的に「レズビアン存在」は「いないもの」とされていたのだ、という説は聴くべきであるし、いずれにせよユダヤでは、レスボス島のサッフォーは差別され石打の刑で殺されたでしょう。アメリカの多くの州法では、「sodomy」は「不自然な性愛」と拡大解釈され、その中には「anal sex」「oral sex」「zoophilia」が含まれます。
法令でどうこう、と言うよりも、かなり昔の映画ですが、リリアン・ヘルマンの原作「子供の時間」の映画化「噂の二人」(六一年)では、私立の女子寄宿学校を経営している二人の女性(オードリー・ヘップバーンとシャーリー・マクレーン)の友情がビアンの関係にある、という悪意のある女生徒の中傷により学校経営が破綻し、片方の女性が自殺してしまう。というストーリーに見られるように、少なくとも、六〇年代のアメリカの上流階級には、受け容れがたいものだったことが窺えます。ヘルマンの原作でも映画でも二人の関係は肉体的なものではなかったのですが(その女生徒は問題児で、悪意で歪めて、そのように中傷したのです)、学校の評判は地に墜ち、親たちは生徒を引き上げる騒ぎとなります。
実は、ヘルマン原作のこの作品の映画化は二度目で、しかもどちらも同じ監督のウィリアム・ワイラーが手がけました。名品「ローマの休日」で知られた監督ですが、ドイツ系アメリカ移民でユダヤ人であり、「赤狩り」の際には徹底して抵抗するなど気骨のある人でした。最初の映画化は三六年の「この三人」で、レズビアンを匂わせる原作を「性的倒錯の禁止」に当たるとして、ハリウッドの倫理コードが認めなかったため、「この三人」は中途半端な三角関係といった話に終わりました。当時、ワイラーやオットー・プレミンジャーは映画業界内での表現の自由のために戦っており、この二度目の映画化で、ハリウッドの倫理コード改正により、やっとレズビアンを表面化することに成功したのです。
ヘルマンの原作は元々は三四年に書かれた戯曲で、ブロードウェイでヒットした演劇を元に映画化されたのですが、ハリウッドはブロードウェイより保守的でした。この映画はハリウッドの倫理コードが改正されて後、初めての試みで、ワイラー監督は勝利を勝ち取ったのです。ちなみに、ヘルマンの原作は、当時の彼女の恋人だった(ハードボイルド作家の)ダシール・ハメットが現実に起きた事件を元にしたらどうか、という助言に基づいて、一八三一年にスコットランドはエディンバラで実際に起きた学校での出来事を元に執筆されたのですが、これがピューリッツァー賞ドラマ部門の候補に上がった際に、審査員の一人がその芝居を観ることを拒絶したため、選考委員会は、ヘルマンの戯曲は現実の事件や裁判に基づいているので、賞の候補対象にならない、と苦しい言い訳をして、別の戯曲に授賞しました。この決定に怒ったニューヨークの演劇批評家サークルは、ピューリッツァー賞以外の独自の賞を設立するに至ります。このように、三〇年代のハリウッドのみならずブロードウェイでさえ、社会の無理解と性差別と、表現の自由との戦いは、根が深いものがありました。
そして、映画「悲しみの天使」に戻ると、そこでの少年同士の愛は――原作でも映画でも、特に強調されていたことでもありますが――、それは何も、男子寄宿学校なら生徒(少年)たちだけが囚われている「罪」ではない、という事実があります。そこにいる生徒は男子だけですが、寄宿学校には、生徒だけではなく教師もいます。彼らもまた同じ性欲をもつ男性であり、おそらく教師たちも、女子禁制の中で、可愛い生徒がいたら、そこに、そこはかとなくエロティックなものが通うはずなのです。これは、上記の「噂の二人」で(そちらは女子寄宿学校の話ですが)問われた主題でもあります。
私自身の個人的な経験でいうと、不眠症その他で二回ほど高校一年をダブったので、都合五年も私立の男子校にいたのですが、そのミッション校にいる間に、とても可愛い少年と同学年になったことがあります。私は、ぬかりなく自分の作品のいろいろなところに彼を紛れこませていますが(それがどこかは秘密ですけれど)、その少年に対して、自分がやましい欲望を感じたことは一度もないと言えば嘘になります。しかし、他の同級生たちも、彼をわりと特権的な存在として扱っていたように思います。むろん、七〇年代の日本では、誰もそういう欲望を実行には移さない節度はありました。それでもなお、その可愛い少年は、わりと特異な立ち位置を自然にもっていたように思います。彼はかなり辛辣なことを平気で口にするのですが、私が言ったら殴られそうなことでも、彼の言葉なら、周囲はみな許容する、といった感じでした。
さらに言えば、ミッション校だから、毎週「聖書」の時間(単元)があり、その教師は牧師です。そして私は高校からの編入組でしたが、その子は中学からの生え抜きでした。だから、その子のことを中学時代から知っている牧師の先生が、ある時(確か本人はいないクラスの時だったと思いますが)、「(彼を初めて見た時に)どこのお稚児さんかと思った」と言っていたことを、私はまだ鮮明に憶えています。
「お稚児さん」という表現の意味を、教師も、生徒たちも、ともに共通了解していたのは確かです。もちろん、その教師は、ノーマルであったし、間違っても、その少年によこしまなことを仕掛けたりしたりするような人ではなかったのですが、心の中で、ふっと、あらぬ想念を抱いていなかったとは言えないように思いました。まあ、これは私の純粋なる妄想交じりの回想ですが、そこが普通の学校ではなく、ミッション校であるために(実際には、ミッション校だからといって私やその子をふくめ、全員がクリスチャンではないのは当然にしても)、よけい、そういった「いけないこと」への感情は強かったように感じられました。
日本での実情は、そういう仄かで淡いものに過ぎません(そもそも「稚児」という表現で判るように、日本には古来から男子同性愛を許容する文化があります)が、欧米では周囲がみなクリスチャンですから、その中でのそうした感情はもっと劇的なものになるでしょう。トーマの心臓で描かれたような事件や、その発想の元になった映画「悲しみの天使」のような出来事は、実際、あっても少しもおかしくはないのです。
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萩尾望都氏の諸作において、男色行為がけして快楽をともなう恋愛行為としては決して描かれないことと好対照のように、竹宮作品においては、快楽をともなう肉欲の行為がない男子同性愛など、認められない、とでも宣言したいほど、それは堂々とした少女マンガの革命宣言と言えましょう。
萩尾氏は、なんとか「肉感的になるのを避けている」と自作を説明したことがあるのですが、なぜか氏は男色行為を美しいものであるとか、特に受け身の少年にとってそれが心地よいもの、として描いたことは一度もありません。具体的に言うと「メッシュ」や「マージナル」で同性の大人に犯される少年(色子)は、いつだって性的虐待の被害者以外ではないのです。
しかし、それでもなお、彼女の「トーマの心臓」は、同じ本歌を元にして本歌取りをしているため、「悲しみの天使」の路線はきちんと踏襲していて、彼女の描く男子同性愛は、ほのかな恋心であり、一つ年長の男の子に憧れや畏敬をこめて、指をからめたりキスを交わしたり、その程度で止まっています。
とはいえ、やはりそれは「いけないこと」であり「罪」だと認識されてもいるのです。それと同時に、キリスト教の教義の中核にある、イエスが全ての人間の罪業を背負って磔刑で死んだように、萩尾望都描く美しい少年トーマは、自分が愛した少年ユーリが、理由は不明だが、なんらかの「罪」を犯して、見た目は健康そうであっても、実は死んだも同然の生ける屍であることを鋭く見抜き、そんな相手を救うために自分の身と生命すべてを献げるのです。
キリスト教で自殺は罪です。そこで彼は高架線の隙間から転落する、という事故死を装う、非常に考えぬかれた子供らしからぬ理知を働らかせます。これによって、トーマの行為は、キリスト教の開祖、イエスと同然となります。イエス・キリストの贖罪行為が自殺も同然だとしても、誰もそれを咎めはしない。ここでは「苦難の僕」は引用されませんが、トーマの行為はそれそのものです。つまり無垢の少年トーマは罪人でありながら救済者(キリスト)であるという、宗教的奥義を洞察した二重性を帯びている。
人が他人のために死ぬ、というのは、これはとても大変なことです。いかに愛している者のためでさえ、誰でもなしえることではない。それを、たかが十四歳の少年が、半年の間ずっと考えつづけて、出した結論が、そういうキリスト教の真髄を衝いたような、高度に神学的な論理と倫理が突きつめて考えられています。
しかも、物語は、最初にトーマの死への転落から始まるのですが、その遺書がユーリに届いた時に、ユーリは反射的にその手紙を破り捨てます。ユーリ少年の身に襲った苦痛にみちた試煉が、彼をしてかたくなにさせて、ユーリは一度はトーマの愛を斥けるのです。その前に現れた、トーマそっくり(だが、中身は正反対)の少年エーリクが現れ、コミックスで全三巻という、当時としてはかなり長いストーリーが積み重ねられた果てに、ようやくユーリがトーマの心臓の音を聴き、その想いに打たれる。そうとまでは考えなかったかも知れないが、トーマが策んだ、イエス・キリストと自己を同一化させるような救済の道が、一条の光のように心理の暗黒に閉じこもったユーリを照らしだす。そうして全てのピースがぴたりと嵌まり物語りは閉じます。しかし、そこで、どうしようもない心的衝動として、物語を突き動かす何かは、トーマが必死に考え、想いをつくし、相手のためになら死んでもいい、と思いつめた深い思索であるのです。
七五年の冬に、この作品に初めて接した私は、少女マンガという表現が、かくも深淵な哲学を描いているのに驚きました。この作品は、いくえにも重層的にレイヤーのように重なっているため、読む人間の知的あるいは霊的な階層に応じて、プリズムのように変化していきます。表層だけを見ても、それは美しい一編の恋愛小説のように心を拍ちますが、一年前まで、ミッション校にいて、キリスト教の教義について、異端的な面からも、正統的な面からも、さまざまな考察をしていた私にとって、マンガでこうした表現が可能なのか、と一驚したのです。小説家が、同じ主題を描きつくそうとしたら、ドストエフスキーかカミュほどの大作となるでしょう。それを、見た目は少女が読む、マンガで描ききっている。
それまでに、私はSFによって、「世界の見方」は教わったように思います。しかし、どうやって表現してよいか、判らなかったのですが、この本で、一気に世界が開けたように、理解しました。そうだ。こういう方法で自分は自分の世界を描けるのだ、と。不眠症で五年間もの長きにわたって世界と自分とを引き裂いていた暗い黒い亀裂を埋めて、そこに何か創り出そうという衝動にかられました。
萩尾さんは、あるエッセーで、読み手が描き手の世界に渡るには、暗くて深い川があり、それを超えなければ、絶対にコチラ側には渡ってこれない。と書いていたのですが、私は、ついにその手がかりを掴みました。あいにく、主題を見つけるのに、もう一年を要し、さらに最初はケント紙に黒インクでGペンを使って描いた私の絵は、とても他人の評価を受けるだけのものではありませんでした(萩尾さんが審査委員をされていた別冊少女コミック誌の新人賞に応募したのですが、予選も通過せずに返戻されてしまいました)。そこで、仕方なく絵を文章に換えて小説にしたものが、私のデビュー作となりました。
大学を卒業した私は、南方の大学に赴任したのですが、そこで、入選の知らせを受け、手にしたSFマガジンを見て、手が震えました。編集は私に黙って、その処女作を飾るイラストを萩尾さんに依頼してくれていたのです。
長々と本筋から外れた自分語りをしてしまいましたが、そういう次第で、私は、萩尾望都氏には、いくら返そうとしても返しきれぬ大恩を受けています。作品によって、いくらかでも、それを返せれば、と思いつつ、いつしか三十数年が経ってしまいました。萩尾さんは、私より数歳年長でありますが、なお現役です。私も、あれこれスランプみたいな時期はありましたが、今もなお書きつづけています。萩尾さんが描きつづけている以上、魂の弟子が止めることはないでしょう。
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とまれ――、
そうした十四歳の少年がたどり着いた仄かな思いですら、カトリック寄宿学校の厳格な紀律の中では「罪」と見なされていたことは確かでしょう。そして、女人禁制の男子校の教師(=聖職者)たちは、自分自身のやましさも裏返しに手伝って、それを「不道徳」で神に背く「罪」を犯したとして、いたいけな少年たちを罰するのです。しかし少年たちの真っ直ぐな心は、そうした欺瞞をかろやかに見抜いて、その向こう側にある真実を射抜く。自分の命さえ投げ出して、自分の愛した人を救うのです。だが、それはしかし、あくまでも大人の世界では、「罪」でしかない。
ジョイスが、後に「若き日の芸術家の肖像」となる原型作品を書いたのは、彼が二二歳の時でした。当時は、まだ英国はヴィクトリア朝で、大英帝国は経済的にも栄光の頂点を極めていましたが、光あるところに陰もまた濃く、ジョイスとは二十歳ほど年齢差のあるコナン・ドイルが生んだシャーロック・ホームズの世界では、必ず事件の原因はロンドンではなく、「外地」にあります。
そもそも書記であるワトソン博士は初対面時にホームズが炯眼で見抜いたように、アフガン戦争の復員兵(従軍医師)であったように、この時代の英国は帝国主義が不可避的に招いた国際紛争に明け暮れてもいました。アフリカの利権を漁るために国家をあげてオランダ系アフリカ人(ボーア人)が築いた国家や国土を焦土に変え、ナチスに先んじること四〇年早く強制収容所を造り、二万人を虐殺しています。
私は、後にジャック・ヒギンズ「鷲は舞い降りた」で、見かけは普通の白人のおっとりした老婦人が実はボーア人で、大英帝国への抜きがたい憎悪の炎を燃やしている、という描写を読んで驚いたことがあります。これにさらにアイルランドの愛国者リーアム・デヴリンが絡み、主役の(オットー・スコルツェニーがモデルと言われる)シュタイナー中佐麾下の降下猟兵部隊が、ボーア人老婦人が住む近郊の村に訪れるチャーチルを誘拐せんと謀略を図る冒険小説ですが、交戦中のドイツ人が敵なのは理解できますが、日本人の目から見たら、同じ英国内に住みながら、英国を呪い憎むボーア戦争の生き残りや、IRAの戦士(英国から見ればテロリスト)が混じり合って骨肉相食む戦いをくり広げる姿に、大英帝国のかかえる闇の深さを見る思いでした。
本格ミステリ論を思想的に発展させた笠井潔氏が指摘したよう、首都ロンドンで起きるあらゆる事件は、実は、英国にとっての「外部」から来るのです。ホームズシリーズの長編「四つの署名」はインドのセポイの乱が背景にあり、「恐怖の谷」はアメリカの炭鉱町での事件を背景にしています。
ヴィクトリア朝という時代は、うわべの文明開化の輝やきの背後に途方もない暗い闇をかかえて、その闇夜のなかで、切り裂きジャックなどが跳梁跋扈する、えたいの知れない社会でもあったのです。シャーロック・ホームズもまた、ジャックと同じ闇の中から生み出された架空の人物でした。
ドイルもジョイスも、ともに幼少期をジェスイット会系のカトリック寄宿学校で過ごしており、ジョイスは「我は仕えず」と言い放って祖国アイルランドを捨て去りますし、ドイルもまた後年、ジェスイット系寄宿学校の体罰や教師の頑迷さを「救いがたい」と悪しざまに批判しています。あまり好い思い出はなかったのでしょう。
おそらく、ジョイスの時代には、それが極限にまで達したのだ、と思います。彼より三十年か四十年前のワイルドの時代では、実際に同性愛は牢獄に繋がれる刑法上の「罪」だったことを考えると、十九世紀にそれが成人でも、ともすれば社会的生命を絶たれるほどの重いことなのだ、という認識は、ごく最近まで欧州諸国の、特に上流階級にはあったことが判るでしょう。国によって、程度の差はありますが、それを暴露されるという脅迫を受けて自殺した政治家などが、現実に最近でもいました。しかし子供たちの世界にまで、そういう認識を過剰に植え付けていたのは、かなり昔の話だったのだ、と思われます。
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おそらく教育改革の波は大陸や英国にも広がって、ジョイスの時代のようなことは二十世紀にはなくなっていたのでしょう。考え方としては判る気がします。男子同性愛は、古く旧約聖書の申命記の頃から、獣姦とともに、石打ちの刑と定められた禁忌であり、またキリスト教においても、パウロが書簡にて、決然とそれを否定しています。だから、それがいかに重大な罪であるかは、子供たちが幼い内に、彼らに自我が生まれる前に、強烈にその小さい頭に叩きこんでおかねばならない。特に男子生徒だけが共同生活を送る全寮制の学校なら、毛ほどの間違いがあってはならない。当時の教育者はそう考えたのでしょう。
寄宿学校では、(後にナチスがヒトラー・ユーゲントの掟として再現し採用した)就寝時に両手を掛け布団の上に出しておくこと、が義務づけられていたと言います。むろん、自慰行為の禁止のためです。本質的に、ナチズムは人間の「自然(=動物性)」を嫌います。自然は放縦なる自由を生み、それは、ナチスが考える紀律ある人間とは背反するからです。ゆえにユーゲントの少年たちに自慰をさせない。
ホロコーストを始めとするナチスの残虐行為を「けだものの所業」だと言った表現を時おり見かけますが、違います。人間が同じ人間に対する残虐行為に及ぶのは、それが極めて「人間的の所業」なのです。どんなに飢えた動物でさえ、餌となる草食動物をガスで殺し、死体から石鹸を作ったりしません。人間だけが、それを為すのです。
私は、わりと性的には抑圧された家庭教育で育ったのですが、それでも思春期をこえた男子であれ女子であれ、健康であれば、自慰行為をしたことがない、という人は、滅多にいないと考えています(ごく少ない例外はあるでしょうが)。それを「断罪」したり、「不自然」なものと考えて抑圧するのは、むしろ不健全なことです。
人間は二次性徴をすぎれば自然と性欲が起こり(これが発生しなければ、人類は滅亡します)、それを強権的に抑えるのは、不自然だ、という対抗言論が二十世紀になると、当然のように、出てきます。フーコーのいう「生権力」です。
しかし、ジョイスの時代には、違いました。とはいえ、その罪を犯せば地獄に行くのだぞ、と言われても、肝心の地獄のイメージが漠然としていたら意味がありませんから、幼少時にこれでもかこれでもか、という具合に地獄の恐ろしさを叩きこみ畏れさせるわけです。
もし、そういう凶悪な教育がなされていたならば、とても「悲しみの天使」など生まれるべくもないでしょう。あんな教育を受けたら、ほんのわずかな過ちでも、二人の少年には深く「罪」の意識が生まれて、「やおい」の源流どころではありますまい。年代以外に、フランスとアイルランドの違いもあるのかも知れませんが、少なくともジョイスの時代に、「学園反乱」の小説も映画もなかったことを考えると、とにもかくにも時代が変わったことを実感させられます。
「悲しみの天使」は、今回、念のためにウィキペディアの日英仏各版を参照したのですが、以前は見た憶えのない記述が載っていました。この映画は、作家のロジェ・ペールフィットが四三年に刊行した実話を元にした処女作の自伝的小説が原作になっています。ペールフィットはゲイで、映画の撮影中に現場を訪れ、その際に主要クレジットには出てこない端役の少年、アラン=フィリップ・マラニャックを見初めて、後に二人はそういう関係に陥ります。
映画撮影当時、アラン少年は一二歳くらいだったはずで、ペールフィットは四十歳以上年長でした。ペールフィットは手を回して、アランをベルギー貴族の養子にし、後日、事実上の恋人にしました。現代ならペドで訴えられていた案件でしょう。その後、アランが三十歳で歌手のアマンダ・リアとベガスで結婚した後も、どうも二人の(少なくとも精神的な)関係は続いていたようで、二〇〇〇年にペールフィットが亡くなった六週間後にアランは買ったばかりの農場の不審な火事により四九歳の若さで死んでいます。後追い心中の疑惑が去らないそうですが、真実は判りません。もし、そうだとしたら、痛ましい話です。
ペールフィットの記述がいつ頃から日本語項目に付加されたのか、私には判りませんが、以前なかったのは(次の理由からも)確かです。
私と私の(主にSF関係の)仲間たちは、ジェンダーパニックへの関心により、やおい小説が初めて公然と刊行された九二年から、年次SF大会の企画で「やおいパネルディスカッション」を開いてきました。まだBL等が流行する前から、それが隆盛をみる期間まで続けたと記憶します。
九〇年代初頭の当時は、そんなモノに真面目に関心を示す人は、ごく少数のジェンダーパニック好きを除けば、誰もいなかった頃です。星霜移り、今ではカルチュラル・スタディとして、やおいの論文を書いて、それで博士号を取る人がいる世の中です。そうした変遷の初期から、その分析や展望の論議に加われたことを、パネルを企画し、誘ってくれた小谷真理氏に感謝したいと思います(この運動は今は明治大学客員教授となった小谷氏の「ジェンダーSF研究会」が主催する「センス・オブ・ジェンダー賞」へと引き継がれています)。
パネル第一回目には、「やおい」作家の山藍紫姫子氏を招き、また仲間内のコミケの証言者などに、内実を語って戴きました。パネルは記録としてVHSビデオカメラで撮影し、そのテープ起こしのテキストは、当時、知り合ったコミケ関係者が発行していた市販のBL誌に載せたので、今は、それらのパネル記録をふくめた文書は、拙サイトにアップしています。
そして最初に、自分の公式サイトを作った際、他にコンテンツがないため、それらの関係記録をインターネットに上げる目的で資料を漁った九五年五月には、そもそもまだ検索エンジンがなかったので(※注)、参照できなかったのですが、その後、一度は調べたはずです。しかし、この原作者についての記述は記憶にありません。履歴では、最古の版はおそらく二〇一一年のものだと思われますが、原作者やその周辺についての記事は二〇一四年頃の加筆だと思われます。
※注)ウィキペディア日本語版の記述によると、世界最初の検索エンジンは九四年の「Yahoo!」でスタンフォード大学の学生によって制作されました。日本ではごく一部のアカデミックな環境で九五年半ばには試作されていた由ですが、一般的な認知度は全くなかったと思います。私が初めて「検索エンジン」という言葉を見たのは、九五年に創刊された「インターネットマガジン」のコラムで、それを読んだ私は(こんなもの一体なんのために使うんだろう)と疑問に思ったのを憶えています。当時は、ブログさえなく、今のようにインターネットが世界を席巻する、という展望も認識も、まるでなかったのです。
blog=ウェブログとは、自分のサイトを立ち上げた人が、毎日更新しないと他人から披見してもらえないから、大概のユーザがネット上の日記を書いたことから、日記に特化したオープンソースのシステムとして開発されました。
そもそも、インターネット自体が、ワークステーションが使えた理系の大学院生や研究室の一部のアカデミックな人かマックユーザを除けば、「無い」も同然でした。彼らは「fj(from Japanを意味する)」というテキスト主体のインターネット・コミュニティを構築していましたが、一般ユーザはアクセスも出来ませんでした。私は当時、パソコン通信をやっていましたが、職場の図書館では、端末を通じて、かろうじて「fj」は読めるが書き込めない。またパソコン通信を経由インターネット接続した人にメールが送れる。その程度の繋がりでした。九五年十一月にマイクロソフト社がWindows 95を発売するまで(そこにはブラウザのインターネットエクスプローラがバンドルされていました)、一般人には無縁の存在だったのです。オンリーイエスタディの近過去の歴史に有りがちの、それは、何がいつどうやって始まったか、誰もよく知らないか、説明しづらい一例でしょう。
さて、R・ペールフィットは、英語版および仏語版ウィキペディアによれば(日本語版はありません)、一九〇七年生まれの仏の外交官兼作家であり、公然とバチカンを攻撃したことでカトリック作家フランソワ・モーリアックと論争するなど物議をかもした由ですが、厖大な数の著作があり(仏のベストセラー作家だそうです)、四五年に外交官を辞めた後は作家として活躍。バイセクシャルでもあったらしく、回顧録では過去の女性との不倫についても赤裸々に綴っています。晩年はパーキンソン病で闘病しつつ九六年までに四七冊の作品を書いています。およそ半世紀の間にこの数字ですから多作家だと言えるでしょう。
しかし、残念ながら、日本では、二〇一九年末に出た「特別な友情 :フランスBL小説セレクション」(新潮文庫 ※1)に「悲しみの天使」の原作「特別な友情(Les Amities Particulieres=映画の原題)」の抄訳が収録された以外、邦訳は一つもありません。国会図書館のOPACを見る限り、そうです。アランとの関係を描いた二冊の本「私たちの愛」「心の子」があるそうなので、「特別な友情」の完訳と、その二冊の翻訳が待たれます。
私も試しに「特別な友情」を入手して読んでみましたが、他のレーベルならともかく、よくこんな本が新潮文庫から出たな、と思いました。原題の「特別な」という形容詞は解説にもありましたが、(英訳タイトルにあるような「Special Friendships」に使われた)「special」ではない。英語で言えば「particularity」の形容詞化、といった感じで、もっと密やかで秘めたるものを感じさせる単語です。もっと言えば仏語題名は「異常な友愛」とも訳せます。
とはいえ、実際に一三歳と十五歳くらいの少年たちがやっていることは、出版年からしてハードコアゲイではありえないので(というか、戦時中の、しかもパリがナチス独逸に占領下の四三年に、よくこんな本を出版できたものだ、と感心します)、まあ、時代の差もあるのかも知れませんが、微温的すぎて微笑ってしまいそうでした。
しかも、他の収録作品をみても、大半が長い作品の抄訳や抜粋だったりして、ジッドからサド侯爵まで取りそろえた作品群はいかにも多様に見えますが、ぜんたいに冒険心のない印象です。しかも目玉の(巻頭におかれた)タイトルワークからして、映画が控えめに描いた男子同士の交流は、それに触発された萩尾・竹宮作品に較べても温和しいもので、たかだか指をからませたり、口接けをする程度で、現在の日本のBLの方が遙かにハードです。
私は資料として購入しましたが、正直、BLの世界を多少とも知っている読者としては物足りない感じは否めません。BLに興味があっても、映画「悲しみの天使」に関心がない人には、資料以上の価値はないでしょう。「悲しみの天使」はDVDが出ているのですが、ここ数年、廃盤品切れで、Amazon では、ぼったくり価格のマーケットプライスで高額商品が取引されています。復刻してくれると有りがたいのですが、なぜか出ません。
ここ数年、まったくBLとは関係ない版元から、似たようなアンソロジーが出ているのは知っていますが(「平凡社ライブラリー」の「古典BL小説集」(一五年刊)など)、なにも今さら新潮文庫が、しかも「BLコレクション」などと仰々しいサブタイトルまで付けて出す必要があったのかな、と思います。しかも表題作以外のタイトルはほぼ他のの全集などで読むことが出来るので、買う意味がない。アンソロジーではなく、完訳ならまだしも、抄訳で、他の文豪たちの作品に交じって、明らかに文学的には劣る、しかし一部では有名な作品をタイトルにして訳出する。一体なんのために刊行したのか、よく意味が判らない本でした。
※1)https://www.amazon.co.jp/dp/4102045139
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これに関連して思い出すのは――、
六〇年代後半に河出書房から「人間の文学」という全三〇巻の叢書が刊行されました。私は主に図書館で読みましたが、何冊かは古本屋で購入しています。それは、サドの古典的著作から、現代文学としてはマンディアルグの「海の百合」やバロウズの「裸のランチ」まで揃えた画期的な西洋の異端/官能小説選集でした。「人間の文学」という叢書名は、「人間」だからこうした欲望にまみれて生きているのだ、そういう「文学」なのだ。という意味でしょう。はっきりと人間性の底に在る猥褻や官能といったものを高らかに宣言したものであり、クロソウスキーやバタイユといった、いわゆる確信犯的な、文学者が手すさびで書いたポーンまで網羅した凄い叢書です。
実際に、これに収録された、マルキ・ド・サド「悪徳の栄え」は前年五九年に現代思潮社から刊行された直後に刑法一七五条の猥褻物頒布等の罪に問われ、被告側の訳者・澁澤龍彦や版元の社長らは最高裁まで争い、有罪判決が出ています。今も流通している版は、当時、猥褻であるとされた箇所を削除したものです。表現の自由と猥褻のせめぎ合いは、この二年前の五七年に、「チャタレー夫人の恋人」事件ですでに「文学作品であっても公序良俗に反したものは猥褻と見なす」(大意)との判断が裁判所で下されていました。
「チャタレー」裁判の際には版元がこの事件で銀行融資を断られ、倒産の憂き目を見ていますが、現代思潮社は裁判記録を「サド裁判」として刊行し、ちゃっかり商売にしました。弁護人には埴谷雄高、大岡昇平、吉本隆明、大江健三郎といった高名な文学者が名を連ねて、特に隆明と検察官とのチグハグなやり取りなどは今読んでも面白い記録です。発禁と言っても該当箇所を削除して再販できますし、訳者の澁澤龍彦も高等遊戯の感覚で裁判に臨んでいるため、それほど悲壮感はありませんでした。
ところで、その後、ずいぶん経ってから、叢書の一つに関わった文学者で大学の教授でもある翻訳家が、ある猥りがわしい画集の刊行の際、猥褻罪で発禁処分となりました。結局、法廷で争ったのですが、かつて六〇年代にサドの著作がやはり猥褻罪で訴えられた時の澁澤龍彦氏に較べて、その人の言い分は、「これは芸術であり、芸術ならば発行しても好いのだ」。といったもので、まあ、そういう低い意識なら負けても仕方ないな、と私は思いましたが、大方の予想に反して勝訴しました。ただ、この騒動の中で、氏は京都大学教授を辞任しています。
この一件は、六〇年代にサドの「悪徳の栄え」で同じく発禁を喰らって、これといった自己弁論も一切せずに、一種のお祭り騒ぎとして裁判所に出廷しないこともあって敗訴した澁澤龍彦氏とは両極端の観だった印象があります。
たとえば、他に猥褻罪で法廷闘争をした人として映画「愛のコリーダ」の大島渚監督がいますが、彼の場合は「猥褻で何が悪い」という言説で闘いました。すこしムチャクチャに思えますが、思想的には「これは芸術なんだから猥褻ではないんだ」という言い方は「猥褻であるが優れた芸術だから公序紊乱には当たらない」という側面を削ぎ落としており、不徹底な自己満足、ないし芸術至上主義で、多少なりとも鼻につく言葉です。私は自然な人間の根源的なものとしてのエロスには寛容的というか、むしろ惹かれるタイプなので、「猥褻で何が悪い」という言い方の方が、たとえ法廷で負けても、より「人間的」な言葉ではないか、という立場を取っています。
私自身、いくつかの官能的な「やおい本」を書いています。それには美文や雅語を駆使してはいますが、あくまでもそれは読み手の春情をいくらかでも刺激するために意識的に書いているので、ハッキリ言えば、「オカズ」にならない小説なら、それは「やおい」ではない。拙作は、他の女性作家さんが書いたものとはどこか違うらしく、この業界では、真正「やおい」とは見なされていないようなのですが、それでも、ある社会学者の女性から「野阿さんのやおいでXX回抜きました」とか面と向かって言われたことがあります(正直、初対面の女性から白昼堂々そう言われて、私も動揺しました)。また男性の評者からも「不覚にも勃ってしまった」とか評されたことがありますので、その程度には「実用性」があるんだろう、と思っています。実用にならない「やおい」は「やおい」ではないでしょう。
そして自分が書いた「やおい」は断然、公序良俗を侵している自覚と認識が、私には、あります。世が世なら発禁となっても仕方がないであろうが、今は司法の解釈も変わり、あれほど論議の的になったヘアヌードでさえ、篠山紀信が樋口可南子を撮影した「water fruit」(朝日出版社 九一年刊)で「解禁」されています。
写真や映像以外では、確か、ジュニア小説から官能小説に転じた富島健夫氏の「初夜の海」(一九七三(昭和四八)年に摘発)を最後に、文章だけの本を猥褻だから、という理由で処分を受けることは、現在、まずありません。しかし、発禁の覚悟がないなら、その分野に手を出すべきではない、と思っています。
それはともあれ、ペールフィットです。
彼は、一九〇七年にフランス南西部のカストルに生まれ、十代をイエズス会やラザリストの寄宿学校で過ごし、トゥールーズ大学で言語と文学を学んだ後、一九三〇年にパリ政治学院を首席で卒業し、三一年に外交官となり、ギリシャのアテネで大使館書記官として三八年まで勤務しています。不思議なことに、ゲイであることをカミングアウトし、バチカンを攻撃しながらも、最期はパリにて、カトリックの終油の儀式を受けて永眠しました。カトリック系の寄宿学校に通ったなら生まれてすぐ洗礼を受けたはずで、実在の教皇を名指しでゲイだとか攻撃したわりには、破門もされなかったようです。享年九三歳。
(ウィキペディア英語版からリンクの張られたニューヨークタイムズ紙に、氏の生涯を要領よくまとめた死亡記事があります(※2))
※2)https://www.nytimes.com/2000/11/08/arts/roger-peyrefitte-french-writer-dies-at-93.html
なんとも、波乱に富んだ人生で、どことなく、ほぼ同世代の英国のゲイ作家でもあるクリストファー・イシャーウッドを連想させないではおかない経歴ですが、年代からして、彼は、ジョイスが体験したような極悪な幼年教育を経ないでいられたのでしょう。
フランスの公教育では「ライシテ(laicite=非宗教化)」の政教分離原則が貫かれており、これが近年、フランス革命以来の仏教育界の歴史など知らないイスラム系移民との確執を生んでいることは好く知られていますが、あくまでも、それは公教育だけの原則なので、カトリック系の寄宿学校は私立あつかいで、この原則は適応されません。それに「特別な友情」を見るかぎりでは、そんな道徳教育を幼年期に受けた印象が全然ないので、きっと、ペールフィットは、ああした教育とは無縁だったのだろうな、と思われました。
ちなみに仏の全学校数に対する私立校の割合は小学校が一三・七%、中学校が二六・六%、平均一八%でこの数値はEUの他の諸国が一〇%前後であるのに較べると多いのですが、実にその九五%がカトリック系の私立校であると言われています。年々、日本だけではなく世界的に(イスラム圏を除いて)宗教人口が減少しているとはいえ、まだまだカトリック大国のフランス。それなりの改革を経て、なお人口の半分以上がカトリックのままだとも聴きます。「悲しみの天使」は実話である由だし、そのような紀律の「亀裂」があるのかも知れません。
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私は、現在の仏のカトリック小学校の実態をくわしく知るものではないのですが、ゴダールやトリュフォーらが崇敬する映像作家、ジャン・ヴィゴに「操行ゼロ」(一九三三年)という短編映画があり、これは実は、先述した「ifもしも...」の「本歌」なのですが、モノクロが美しい作品で、夜の寄宿舎で、「もしも」ではボビー・フィリップスに相当する美少年タバールが「Y a la merde!(くそったれ)」と叫んだとたんに、いっせいに生徒たちの反乱が起こります。それとともに枕が引き裂かれて中の羽根がスローモーションで舞い散る幻想的なシーンは今も印象に鮮やかです。映画史に記憶されるべき名場面でしょう。
リンゼイ・アンダーソンは「ジャン・ヴィゴの映画がなかったら自分たちの作品もなかった」と語っており、リスペクトした上での模倣を認めています。「ifもしも...」では生徒と教師の間で銃撃戦となるクライマックスは、「操行ゼロ」では、他愛もない祝祭のような「反乱」として描かれているのは、やはり時代の差でしょう。
操行ゼロ 名場面
その時(八六年頃だと思います)、私は大学の夏休みに東京へ遊びに来ていて、前年、パリで語学研修中に出会い、意気投合した在京の友人と、三百人劇場にコクトー原作のJ・P・メルヴィル監督「恐るべき子供たち」(五〇年)を観に行ったのですが、併映の「操行ゼロ」の方が素晴らしく、しかも見ればすぐに判るとおり、それが数年前に見て感銘を受けた「もしも」の本歌取りだったことに愕然として、コクトーの映画の方をろくに記憶していないほどでした。
「もしも」が公開された当時、それがジャン・ヴィゴ作品の本歌取りだ、といった事実を記した映画評論など一つもなかったのです。ともあれ、「操行ゼロ」で描かれた仏の寄宿学校では、ジョイスの「若き日の芸術家の肖像」のような威迫的な宗教教育は行われていなかったように感じました(それでも学校当局の横暴に反抗して、ささやかな学園反乱は起こすのですが)。年代からすると「操行ゼロ」の方が少し早いのですが、だとしたらこの差は、フランスとアイルランドの違いなのかも知れない、とも思われました。しかし、ジョイスよりさらに以前となるルナンの時代には、フランスでもジョイスと似たような教育があったことは容易に想像がつきます。
私は、個人的に日本人カトリックの信者の友人を知っていますが、彼は、こんな悪辣な初等教育は受けていないはずです。彼はボーンクリスチャンですが、小中高と学習院だったので、むしろ十代は西洋的な教育とはかけ離れた環境だったと思われます。まあ、カトリック系の小学校であっても現代だとジョイスの時代と同じ教育があるとは思えません。要するに、日本人のカトリックであれ誰であれ、ジョイスやルナンが受けたような強迫的な暴戻にも見まごう幼年教育とは縁が無かった。さらに、そういうことは、たとえジョイスと同時代でさえ、一般の普通の人も知られることはなかった。
そして、それは西洋でも、実は、あまり変わらなかったのではないか、とも思っています。ジョイスがああまで克明に自分が幼少時に受けた教育について描くことがなかったならば、神学校の寄宿舎の教育内容の細部など、外部の人間にわかるわけがありません。学校という閉域で、子供たちが曝されていた冷酷なまでの言葉の暴力は、一般市民には一切関わりなく、また知られることもなくスルーされていたのだと思われます。
しかし、一度でもその教育の苛烈な火の洗礼を受けた人は、それは生涯ついて回るだろう桎梏となっても当然でしょう。棄教したなら尚さらです。他人に話すことも出来ず、ともにそれを共有した仲間とも会えない。だとすると、その幼少時代のトラウマは、自らの心の最奥に深く押しこんで忘れようとして、しかし忘れ得ぬ悪夢のような傷痕です。ジョイスにせよルナンにせよ、信仰を失なったことで、精神の自由は得ましたが、最初に受けた熾烈な体験からは自由ではなかった。ダブリン時代のジョイスは、家族でさえ見放すような、どうしようもない放蕩児になるのですが、では、ルナンはいったい悪徳の都パリで、どういう自堕落な生活を送っていたのか。ランボーのような破戒無慙なデカダンス生活? とんでもない。彼は、神学校で学んだことを、全て学術の分野で活かすべく、アカデミズムの世界に転じたのです。そして成功しました。
ルナンは神学校で学んだギリシャ語、ラテン語、そしてヘブライ語を、その後、俗世での学者としての成果へと結びつけました。そういう意味では彼は、捨てた信仰の代償に、そこで得た学問が役に立つ別な世界を見つけたのでしょう。人生において、万事が不器用であったジョイスに較べたら、はるかに有意義で器用な、それは転身でした。
これは、別に私はルナンを批判しているわけではありません。人種差別主義にしても、同様であって、彼が「イエス伝」を刊行した一八六三年が、どういう年であったかを思えば、たやすく判るはずです。アメリカでは、ようやく「黒人奴隷解放宣言」が出された同じ年であり、国によって様々の誤差があるとはいえ、やっと近代が始まった年代でしょう。
世界的に見ると、それまで緩やかな連邦制だった四つの国が、どうにか統一され、先んじた英仏などの「列強(Powers)」に伍した時代でもあります。すなわち、六五年のアメリカ(=南北戦争が終結)、六八年の大日本帝国(=明治レストレーション)、七一年のドイツ(=鉄血宰相ビスマルクにより第二帝政がはじまる)、そして同年のイタリア(ガリバルディなどの革命により、ローマ教皇領がイタリアに併合され統一が完了)。実に、ほぼ軌を一にして帝国主義とその衝突、帝国主義戦争の時代が始まった忌まわしい年代になります。
欧州への領土的野心がない、と後にモンロー主義を宣言したアメリカは、米西戦争で、事実上の植民地も同然であるキューバやカリブ海諸国、それに米西戦争で割譲したフィリッピンを支配下におき、中国には門戸開放という威圧をかけつつも、第二次大戦では連合国として、他の三つの枢軸国とは対立していきます。しかし、グローバルな視野でみれば、この四つの国に大した差はありません。いずれも緩い紐帯の「連邦制」から国家統一してなった「帝国」なのです。ただ国内統一が遅れたために、英仏などに較べると、植民地経営などが露骨ではない、というだけの話です。モンロー主義を孤立主義と訳すことで誤解する向きもあるのですが、米の唱えるモンロー主義とは、単に米は欧州に領土的野心がないから中南米における米の利権には手を出してくれるな、というだけの話で、実際には領土的野心は満々なのです。砲艦外交で中南米を傘下におさめ、カリブ海は自分の庭となし、ハワイ王国を併合する。これらは一様に植民地であり、帝国主義以外の何ものでもない。
なお、一言断っておくと、ここで私が二十一世紀の視点で十九世紀に書かれたルナンの本を批判しているように見えても、それは、ごく普通の当たり前のことであって、私には何らの優位性も特権的立場も有りはしないのです。百年たてば、物ごとはかならず進歩します。文化もまた学問も同じです。だから、歴史の少し先にいる人が過去を振り返って、それを批判するのは、自然に湧き出る意見や感想を述べているだけのこと。そこには、なんらの優越もありません。私とて、ルナンの偉大さは了解した上で、彼が捕らわれていた時代的制約を加味しながらも、批判すべき点を指摘しているだけです。
おそらくルナンの時代には、ルナンから見て、過去のあれこれは不満に満ちたものだったでしょうし、もっと言えば、イエスの時代にだって、それ以前のユダヤの歴史は批判すべきことが一杯あったはずです。だからイエスはああいう行動に出たのでしょう。歴史はくり返されるものです。そして一歩ずつ進んでいくものでもあります。
私が今やっていることは、二十世紀から二十一世紀に生きる人間として、だから、当たり前すぎることを、ことさらやっているに過ぎないのだ、ということを改めて確認しておきたい、と思います。よく他人より自分の論が勝れているとか、優越しているとか、そういうことを口にし、文章に書くことでマウントを取りたがるヤカラがいるのは確かです。しかし、私はそういう人たちと同列にいたくありません。同時代ならいざ知らず、歴史において、後に生まれた世代の人間が前の世代の人の成果を批判するのは、とりたてて何の意味もない、とは言いませんが、ごく普通の人としての当たり前の感覚である、ということです。これは、どうか、よろしくご了解ねがいます。
むろん、私が「日本人とユダヤ人」の講読をしている行為じたい、それに当たります。私は何か特別なことをしているのではない。後から生まれた者として、当然の、これは言動なのです。
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なお、現代の視点でルナンを批判した人としては、エドワード・サイードが有名でしょう。
私には少し荷が重いのですが、一応、触れるだけ、触れておきます。前もって断っておくと、私はサイードの思想を十全に飲みこみ、咀嚼した、とはとても言えません。
彼は、「オリエンタリズム」(原著は七八年刊 邦訳は八六年平凡社刊)で、これまで西洋人、特に帝国主義時代の英国ならびにフランスが、いかに「東洋(オリエント)」、ないし「東洋的なもの(オリエンタル)」を恣意的に、しかも抑圧的かつ差別的に曲解してきたか、ということを、当時の英仏の文化(絵画や小説、論考)を細緻に分析して暴くことで、「オリエンタリズム」と、それに伴う「ポストコロニアリズム」という概念を初めて打ち出した思想家です。
ただ、私が読んだ平凡社ライブラリー版(九三年初版)の訳書では、つきつめて言えば、ルナンは文献学的な方法論でオリエンタリズムを展開した。というような論の展開でした。ここでサイードが言う「文献学」とは、ほぼ現在でいう「言語学」と同じ意味です(原語は「philology」で英語でも仏語の「philologie」でも文献学と言語学の二つの語義があります)。
確かにルナンは神学校や、その上級大学で学んだ多くの言語学的な知識(アラム語、ヘブライ語、シリア語、そしてギリシャ語その他)を盛りこんで、史的イエスの姿を描いています。
しかしながら、「イエス伝」でしかルナンを知らない私が、まるで想像だにしなかった一面をサイードは暴いているのです。それらの著作は、「イエス伝」より以前のものであり、残念ながら日本では全く翻訳がありません。これは日本だけの無関心ではなく、今、ルナンのそういう「文献学」的な著作は、欧米でも入手が困難か、誰も見向きもしない由です。だから、サイードが、かなり大仰な身振りを交えてルナンの「オリエンタリズム」を分析する手法は、スリリングなほど面白いのですが、事実上、読者としては、参照不可能な文献に対してなされる批判が延々と続くわけですから、ちょっと戸惑います。
サイードは、仏大革命から王政復古の時代に活躍した東洋学者、シルヴェストル・ド・サシ(一七五八ー一八三八)を「オリエンタリスト」の第一世代と規定し、ルナンを第二世代と見なしています。ド・サシはバチカンが異端としたジャンセニストの家系に生まれましたが、ベネディクト修道院で「東洋語」を学びました。ここでの東洋語とは、アラビア語、シリア語、カルデア語、ヘブライ語のことです。(現在の)東洋言語文化学院のアラビア語とペルシャ語の教授となり、男爵の爵位を得、仏革命の嵐を生きのび、一八一五年にパリ大学学長に任ぜられます。要するに「セム語」の最初の専門家だった人です。彼に対するサイードの批判も興味深いのですが、ここでは略します。
彼の死後、入れ替わりのようにルナンは第二世代の東洋語の専門家として名を馳せます。しかしながら、「イエス伝」だけでは判らない側面をルナンはここで剥きだしにするのです。それは自分が修めた学問である対象のセム語の使用者であるセム語族を徹底して蔑視し、西洋の印欧語族に較べたら、何も創造的なものを生まない二流の言語だ、という認識から、そうした多くの文献を書いたのです。幸か不幸か、それらの著作は邦訳がないため、私には確認が出来なかったのですが、サイードの言葉を疑う気にはなれません。初めてセム語族という言語学上の区分をアーリア語族と対立させ、いわばナチズムの源流を作ったのは、ルナンだと言ってもいいからです。
つまり、棄教者ルナンは、二通りの顔がある、ということです。一つは資料と経験を駆使して描いたイエスの評伝の作者として。もう一つは、あらゆる西洋的人種差別主義の根源として。
サイード自身、極めて複雑な出自と遍歴をへた人です。エルサレムがまだ英国の委任統治領だった三五年に、キリスト教徒のパレスチナ人という、それ自体、矛盾であるような生まれで、父ワディ・サイードは実業家でしたが、第一次大戦中、パーシング将軍麾下のアメリカ遠征軍の陸軍部隊に参加したことで、アメリカの市民権を得ました。母親のヒルダ・サイードはレバノン人です。カイロとエルサレムの間で子供時代を過ごしたエドワードはその後、アレキサンドリアのビクトリア・カレッジで学んでから、アメリカに渡ります。プリンストン大学を出て、ハーバード大で博士号を取得しています。専攻は文学と哲学です。それからは主にアカデミシャンとして活動し、コロンビア大を振りだしに、北米、ヨーロッパ、中東の二百以上の大学で教鞭を執りました。同時に彼は政治的活動家として、パレスチナ国民評議会のメンバーとして、PLOのアラファト議長に近い立場で発言をしています。二十世紀を代表する知識人でしたが、二〇〇三年ニューヨークで六七歳で亡くなっています。
彼は、思想的には、かなりフランスの現代思想(特にフーコー)の影響を強く受けており、実際、「オリエンタリズム」に頻出するタームは、たとえば英語ではディスコース(discourse)である「言説」を訳者はわざわざ「ディスクール」(綴り上は同じ)とルビを振っているように、仏現代思想の学術用語と背景にある思想を如実に表しています。三五年生まれの世代で、七八年の刊行物なら当然でしょう。
「オリエンタリズム」で彼が使っている「文献学」という用語は、「言語学」と訳しても、なんら問題はないのですが、訳者があえてこれを使っているところを見ると、それがフーコーの術語だからでしょう。私は文献学という用語の響きから、書誌学のようなものかと錯覚して、最初はなかなかサイードの論考が頭に入ってこなかったのですが、ウィキペディア日本語版の項目では、「文献学は過去の文章、言語を扱う学問である」と規定した上で、「書誌学」の意味で誤解して使っていることは深刻だ、と注意しています。フーコーがいなかったら「死語」だったでしょう。サイードはもちろんフーコー的な意味で使っているので、いちいち「言語学」に訳し直して読み取る必要があります。
ド・サシにせよルナンにせよ、驚くべきは、自分が当代一流のその分野の学者でありながら、その対象に全く愛情がないことです。セム語族の言語を使う人間(=ユダヤ人)は、印欧言語の使用者と較べて、何かが決定的に足りないから、そういう体たらくになったのだ。だから劣等民族なのだ。といった論調です。これほどまでに、自分が熱中して、その世界の第一人者になった学問対象に愛情がない論考を見るのは、私は初めてです。
少し不思議な感じがしますが、それがオリエンタリズムというものなのでしょう。西洋文化こそが最高の学知であり、キリスト教の文明以外を劣った文明(か、それ以下の代物)と見なし、全く価値を見出さない。おそるべきエスノセントリズムだと思います。ルナンは、キリスト教の信仰を失ない、棄教していながら、なお、キリスト教文明が唯一無二の存在だと信じこんでいるのです。自己撞着ではないか、と思うのですが、彼自身の中では完結しているようでした。
私が読んでいて、どうにも理解に苦しんだのは、じゃあ、ルナンはイエスをどう見ていたのか。ということです。彼はもう信仰を捨てているのだから、イエスはキリストではない。しかし西洋の源流はイエスの思想にあることは認めている。イエスがユダヤ人だったことは判っている。だが、それは断じて認められない。ユダヤもまた、セム語族の一つであり、それゆえにユダヤ的なもの一切が彼には無価値なのです。どう考えても自己撞着です。
だから、ルナンが苦し紛れに編み出したロジックは、
「イエスは「ユダヤ人の特徴」から自らを浄化することができ、アーリア人になった」
――という驚くべきもので、こうなると、民族がどう、語族がどう、という話ではなくなってきます。というか、最早、こうなると「科学」ですらない。十九世紀は啓蒙の世紀だったはずですが、その背後で、おそろしい蒙昧と迷妄の時代が忍びよる、やがてナチスとなり、アウシュビッツにつながる、それが「近代」の始まりでもあったわけです。
信仰を失なったのであれば、もう少し、クリスチャニティ=西洋文化から自由に羽ばたいても好いのではないか、と私などは思うのですが、やはり幼少時に受けた教育がルナンの精神の奥底までも蝕んでいて、こうした「オリエンタリズム」的言説となっていくのだろう、と考えると、なんだか、ため息が出る思いです。
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