20年…
20年とは
早いものなのか?
長いものなのか?
正確には21年になる…
昨今は、様々な難しい病気などの
手術も行っていただけることが多くなった。
20年ほど前
染色体起因障害、特に
18トリソミーや13トリソミーにおいては
手術はおろか
生後1ヶ月の生存率も20-30%ないと
言われていた時代である。
そんな時代に私は
18トリソミーの女児を産み落とした。
女児は生きるに厳しい内部障害を
たくさん抱えており
いつ、命を落としても不思議のない状態では
あったものの
地域の中では最後の砦といわれる
3次医療のNICUに入れて頂くことが叶った。
結論から言うと3ヶ月半頑張り
死亡退院という形をとる結果ではあったが
実に濃厚で充実した育児の期間だったことを
記録として残しておきたい。
また、私の福祉観、死生観は
彼女が育てたといっても過言ではない。
彼女の何から書けばいいのだろう…
兎に角、色々と障害が大きすぎて
例え今の時代に生を受けていてもオペは
難しかったであろうと思う。
ただ、そんな中で祖父である
実父は
何故、手術をしてくれない?!
と、ただ1人、たてついてくれた人だった。
誰もが諦めている中
1番諦めていなかったのは
母である私よりも祖父である
実父だったのかもしれない。
今となってはそんなふうにも思える…
彼女は3ヶ月半、この世で頑張った
訳なのですが
なかなか、臍の緒の取れない子でした。
実際に取れたのは3ヶ月も近づいた頃でした。
コレにも実は理由があったのです。
臍腸瘻
と、いう珍しい障害が絡んでおりました。
ある日、へその緒がとれたのです。
臍の緒は大きな病気などでは
様々な理由から頂けない場合が多いのですが
たまたま、手に取ることができ
運良く頂くことができたのです。
そこまでは
大きな病院、大学病院、3次医療センター
などでは
あらっ!ラッキーな人!で終わる話なのですが
この話には続きがあります。
先に書いた
臍腸瘻の発覚に繋がっていくのです。
臍の緒が取れた数日後
午後の面会にいくと
彼女の手に便汚染をみつけたのです。
面会に入った際
午前に清拭は済ませてあると
報告を受けたあとだったため
オムツから漏れている??
触った?!
いやいや、触るような子じゃない!
!?!?!?!?!?
兎に角、本児の手を拭き
ナースを呼び
その間も原因を探します。
ブカブカのオムツがヘソに当たっている辺りが
特に汚れていることに気づきます。
ナースと顔を見合わせて
まさかねw
なんて思いつつ
汚染された部分を拭いたり
しながら
ドクターに報告し診察をしてもらいました。
まさかの
臍腸瘻…
臍と腸がつながっている状態で
要は便通過時、臍からも
漏れ出してしまう状態だったのです。
今となっては臍から糞をする女!
などと死者冒涜にもなりそうなくらい
メチャクチャ笑い話だし
色んなことが起こり得るんだなぁ…
色んなこと
教えてくれた子だったなぁ…
と、思えるのですが
当時は便が固まり臍の緒が取れなかったのか!
とか、わ!でた!ガーゼの交換!!
とか、気が気じゃない毎日でした。
呼吸器も乗っかっていた子だったので
泣き声もなく泣く子でしたし
心臓も肺もダメだったので
泣かせることそのものがNG
赤ちゃんを泣かせないように生活させる
意味合いが全く違う泣かせない
を、経験しています。
これは私が赤ちゃんが、特に乳児が
ギャンギャン泣いたら
健康なら泣け泣け!!泣かせろ泣かせろ!
と、言う一因の一つですね。
泣ける。泣かせられるって
幸せなことなんですよ。
今、戻って何か1つ彼女に
施しができるならば
思いきっきり泣きたい時に
泣かせてあげて
思いっきりあやしてあげたい…。
かもしれない…
そんな彼女との1日3hの面会生活でしたが
当時としては画期的だったと思います。
死にゆく我が子との思い出づくりの時間を
作ってくださいました。
コイツなにいってんだ?
と、思った方もいらっしゃるかもしれません。
ただ、彼女は現代に生をうけても
おそらく、長く現世で生活することは
難しいと思われます。
当時は私も知識がなかったから
戸惑いながらうけいれていましたが
今の私ならばハッキリとわかります。
育児という名のグリーフケアです。
在宅でやりたいことを聞かれました。
1:
私はずっと楽器をやっていたので
機械音の中での子育てではなく
広がりのある音を聴かせたい。
2:
たくさんの色をしってほしい。
可愛いものをみせたい!
3:
可愛い服を着せたい!
1:
クベース(保育器)の中にポータブルCDプレーヤーとミニスピーカーいれちゃえ!
2:小さなサイズのカラフルな赤ちゃん絵本
起きてる時にみせてみよう!
3:治療の関係で今は難しい
でも、靴下やブーティならいけるんじゃない?!
担当ナースと私の出した答えです。
裁縫が大の苦手な私ですが
頑張って手縫いしました。
本当に難しいところは
実母が手伝ってくれました。
同時に彼女サイズのガラガラやオモチャも
作りました。
健康に生まれて
当たり前に
在宅に帰れるおこさんなら
ごくごく当たり前のことだけど
1つ1つ、どう実施していけるか
検証し実施していったのです。
多分、いま、私の仕事をみたことが
ある人や同業者や
近い仕事の人ならば
ナルホド、この経験からなのか!
と、ご理解いただけるはずです。
さて、しかしながら
この作業もグリーフケアの一環であると
勘のいい対人職の方なら
おわかりでしょう。
そうです死を受け入れるための
教育の一環だったのです。
後悔のない関わりを持つことで
いずれ迎える死のショックを軽減させるための
準備でした。おかげさまで
死の受容は割と早かったです。
死亡退所後
一度、ご挨拶にいき
NICUにCDをプレゼントをしてきました。
子宮内血流音にオルゴールの音を乗せたものや
童謡などを中心に…
たとえ数日で卒業できる
お子さんだったとしても…
少し長くお世話になる
お子さんだったとしても…
うちのように死亡退所になる
お子さんだったとしても…
機械音の中だけで育ちをすすめないで…
豊かな音の中で育った
私の願いでした。
20年前はNICUでママ友が出来るということは
ほとんどない時代でした。
ただ、不思議ですね。
たまたま、何人か気のあったママが
集うようになり未だに付き合いあります。
ナースにも
ココで友達できる人
はじめてみた!
ましてグループ!(笑)
と、言われたほどです。
彼女が亡くなった時
みんな大泣きしてくれたこと
未だに目に浮かびます。
(戦友の子たちは立派に成人してます!)
((コレからますます楽しみ!))
彼女が旅立ち挨拶に行ったあと
少しの時間だけど
童謡やオルゴールの音が
なるようになったよ
と、戦友からききました…
生をうけ、機械や技術に助けてもらいながら
生活をしていく子たちは
技術の向上と同時に増えています。
所謂、医ケア児と呼ばれる子どもたちです。
私はいま
医ケア児等コーディネーターでもあります。
20年前に比べ難しいケースも
増えていると実感しています。
在宅で…
地域で…
生活できる子も増加しています。
20年前、機械音の中だけで生活する
不自然さを感じたり
何故、小児介護という言葉がないの?
何故、同胞児のケアはおろそかなの?
いま、ここに来て
少しずつ問題視されて改善されてきたり
私も資格を取得し
こうして発信していけるようになってきた。
20年は長かったのか?
20年はみじかかったのか?
野愛、ママはまだまだ戦うよ。
野愛、ママは新たに
野愛の妹たちのような子たちにも
何かしてあげられるよう小児精神分野も
含めて社会資源の開発や
地域臨床を広げていきたいよ…
もう少しだけがんばるよ。
あんまり長くやると
ただの老害になりかねないからね。
さぁ、今日もまた一歩前へ…