自分棚卸~自分デジタル史①
あけましておめでとうございます。
ってもう1月終わりそうですが、今年最初の投稿。
気づけばこのページには自己紹介がなかったので、自己紹介を兼ねて「自分デジタル史」をつづってみようと思います。
1.小中高時代 ゲーム大好き
最も古い「デジタルを手に入れた」「デジタルで遊んだ」記憶は、私世代だと多分多いのではないかなと思いますが、ファミコンです。
いや、違いました。正確にはアラレちゃんのゲームウォッチです。
卵から生まれてくる怪獣にひたすら「んちゃ」するゲーム。
さて、ファミコンの話に戻ると。
小学校1年生のころに発売されたけれども、当時はとにかく品切れしていて、おもちゃやさんをいくらめぐっても見つけられませんでした。友達の家や、いとこの家でやらせてもらってたのを覚えてます。
いとこの家にあったエレベーターアクションがなぜか大好きでした。
3年生になったある冬の日、父と母が「あそこのおもちゃやにファミコンがあるらしい」と聞きつけ、車で30分以上かかる隣の市のおもちゃやまで行き、買ってくれました。
当時、ファミコンと売れないソフトをセットにして売る、という商法が一般的でした。ファミコンの定価は14,800円だったけれども、3本ほど要らないソフトを一緒に売りつけられ、多分2万円以上したのだと思います。金額は覚えてないけど、そのときに売りつけられたソフトの名前は憶えてます。頭脳戦艦ガル、ダウボーイ、フィールドコンバット。どれも1面か2面やったら死んでしまいよくわからないゲームでした。
そのとき、かの有名なスーパーマリオも一緒に買いました。当時はワープ使いまくって裏の裏の8-4までクリアできた記憶があるけど、アクションゲームはそもそも苦手なので、なんであのときそんなにできたのかわかりません。ほかにやるソフトなかったのかな。
私は一人っ子。当時、女の子一人っ子でファミコンを持ってるのはすごく珍しかったです。なんでだろう。テレビゲームなんてするのは男の子、っていう無言の圧力があったのかも。
5年生のころに手に入れたドラクエⅢは、私のドラクエ好きの原点になりました。ドラクエⅠとⅡは、いとこの家でやったり、友達に借りてやったりしたけど、クリアしたことはなかった。初めてクリアしたドラクエがⅢで、クリア後もただだらだらとリムルダール周りではぐれメタルを狙い、はぐれメタルが出てくれなかったらマドハンドが延々と呼び続けるだいまじんを倒し続け、いつの間にかゾーマ戦は楽勝になってました。賢者の石要因以外はベホマ唱え続けて勝つ、みたいな。
中2のときにスーパーファミコンが発売。これも入手が難しかったのですが、電気屋の売り出しのチラシを見て、家から決して近くはないその電気屋に開店前から並んで手に入れました。
中学、高校もゲームと言えばほぼドラクエで、Ⅳ、Ⅴとやり続けました。
中学時代、吹奏楽部に入っていた私は、同じくドラクエⅣ大好きな友達と暇があればドラクエの音楽を吹いていました。
高校生の頃に発売されたⅤでは、子どもが生まれたあとに隠れている場所が見つけられなくて、友達に☎して教えてもらった思い出。
あと、この頃になると自分はアドベンチャーは苦手。っていうのを自覚してなのか、サウンドノベルとかばかり買っていました。かまいたちの夜、弟切草はもちろん、月面のアヌビス、魔女たちの眠り、みたいな人があんまり知らないやつも買いあさりました。でも結局トゥルーエンドにたどり着いた記憶はあんまりないです。
大学受験のときに、将来はゲームクリエイターになりたいと思って、電子系の学部に行きたいなと漠然と思っていたけれど…。建築をやっている親の無言の期待を無視できず、結局建築学科に進みました。
2.大学時代 モバイルデバイスとはじめてのPC
大学に入ったら、デジタル環境は一気に進みました。なにせ、理工学部。「電子演算室」というパソコンの並んでいる部屋がありました。
入っていたOSは多分Unixで、「xmosaic」と打つとブラウザーが立ち上がることを教えてもらって使ってました。どう使っていたのか全然覚えてないけれど。
デジタルデバイスと言えば最初はポケベル。公衆電話からものすごい速さで文字を打ってました。
大学3年生になったころにはPHSに変更。歩きながらだとぶつぶつ切れる、みたいなこともありました。
自分でPCを買ったのは大学3年生のとき。私よりも早くPCを購入していた友達が秋葉原の電気街につきあってくれて、いろいろ見て回りました。黒い筐体のIBM Aptiva。本体の上にCRTモニタ。
CPUは確か、MMXpentium200。ハードディスクが2G×2、メモリは64MB。搭載OSはWindows95。これでだいたい30万以上したような記憶。
多分↓こんな感じのPCだった。懐かしすぎる。(っていうか画像を検索していて、今でも動くこれを持ってる方がいるのに驚いた)
このPCで何をしていたかほとんど思い出せない。多分ワードエクセル使っていたくらいじゃないかな。
その後、いろいろ思うところがあって大学院に進学。大学4年の卒論前に中国に2か月ほど交換留学することになり、そのときに中国にもっていって使うようにと、研究室の恩師がSharpのMebiusを買ってくれました。
このMebiusがこの後しばらくの間私の相棒になります。
その後、大学院2年になるころには処理能力がちょっと非力になってきたこともあり、研究費でもっと性能のいいタワー(PentiumⅢの350とかそのくらい)を買ってもらって、それを家で使っていました。
3.大学院時代 チャットにハマっていたころ
大学院1年生の終わりごろ、何をどう検索してたどり着いたのか覚えてませんが、『オレンジ★パラダイス』という『シチュエーションチャット』に行きつきました。
現実ではありえないシチュエーションの中で、自分でないものとして会話する、というのにわくわくしつつ、おっかなびっくり門をくぐったような記憶があります。
その後、いくつかの、お友達が運営する『なりきりチャット』を拠点として遊んでいました。そこで遊ぶ時間が増えるほど、その世界での和が広がっていきました。すごく魅力的な世界だった。いろんな人がいました。
隔週ペースで仲のいい仲間の家に泊まりこんでチャットしたり、もっと大人数集めてオフ会したり。
この頃は定額料金のネットなんてなくて、テレホーダイ。夜11時から朝8時までのみ定額。それ以外だとかければかけるほど料金が上がっていくのでうかつにネットに接続できませんでした。おかげで明け方寝て11時ころ起きる生活になりました。
出会った仲間の何人かは、今でも交流があります。
当時遊んでいたチャットのひとつ、「がぁらないとシネマ」がまだ健在なので、どんな雰囲気なのかはそこを見てもらったらわかるかな~と思います。
この頃は、チャットルームが空いているかを覗きながら、「どこにいく?」みたいな素の会話はICQ(当時のメッセンジャーソフト)で行う、というのが常でした。メッセージが届くと「カッコー」ってすごい声で通知が鳴るんです。(と思ったらネットの定説では「アッオー」らしい)
また、SNSやブログサービスなんかもなかったので、みんな自分のHPを作っていました。ジオシティーズとかに。
このとき、HTMLとCSSを覚えました。ソースをきれいに、HTMLとCSSの使い分けを忠実にするのにこだわっていた(ホームページビルダーとかで作るとソースが汚くなるのよ)
HPに記載する中身、だいたいの人は「表紙」「プロフィール」「創作物(曲、絵、詩など人によってさまざま)」「掲示板」「リンク」。
私も詩を書いたり、曲を作ったりしていたなぁ。当時はMIDI打ち込みをテキストファイルでやった記憶(ある法則でテキストを並べたやつをコンパイルする的なソフトだったんだろうな。あれもある種のプログラミングだったのかも)。
…と思って検索していたらそれっぽいのが見つかった。多分これかな?↓
こういうやつで(ろくにできないのに)曲を作ってみたり、あるいはすでにある曲のアレンジをしてみたりしてHPに載せていました。詩も書いたかなー。中二はとっくに過ぎてたのに遅すぎる中二病みたいな感じのサイトでした(笑)
長くなってきたのでまた次回。