天の御国へ
主イエスはかつて、この地上世界に福音を宣べる伝えるために天から下生された。生前、弟子たちの前て様々な奇跡を行ってみせたのも、自らが創造主の化身であることを証明するためでもあった。
主イエスは復活して天に帰られた後、約束通り多くの弟子や信者たちに聖霊を内住させた。いわば、主イエスは「聖霊が欲しい人に聖霊を与えた」のである。これは、弟子たちに地の果てまで「福音宣教」をさせる目的があった。
一方、私が下生した目的は「聖霊が欲しい人に聖霊を内住させる技法を教える」ためである。聖霊を内住させることができれば、その人は愛で満たされ、それまで苦しんできた憎しみや嫉妬や怒りや強欲から解放されることだろう。天の御国は「地の果て」である、ここ日本から始まるのである。
これまでの人生で愛を否定し続けてきた反キリスト者は、その死後、「陰府(よみ)」へと連れて行かれることになる。陰府とは、一般的に言われている幽界と同じである。
そこでは、改心のためのセカンドチャンスが与えられる。そこでも頑なに「愛と主イエス・キリスト」を否定し続けると、最後の審判を迎えた時に主によって裁かれ、永遠の地獄へと落とされることになるだろう。
一方、陰府において、愛に目覚め、主イエス・キリストを神の子と認めることができれば、永遠の命を得て、至福のキリスト王国、すなわち「天の御国」に赴くことができるのである。
神への信愛に基づいた祈りを日常のつとめとしなさい。これが、人として最も大切なことである。諸君に次の祈りの言葉を授けよう。天を見上げ、胸に手を当てて、心の中で、あるいは声に出して毎日何度でも唱えなさい。瞑想の前に唱えるのもいいだろう。
この祈りの言葉は、『新約聖書』の「マタイによる福音書・第6章」に記されている祈りの言葉を、私なりに解釈し、簡略化したものである。さらにこの祈りに加え、以下の祈りも加えてほしい。
この二つの祈りは、「ロザリオの祈り」からの引用である。来る「暗黒の三日間」でのサタンの来襲に備え、この祈りを毎日祈ってほしい。
ここで一つ、私が考案した秘儀である「聖餐式」を諸君に伝授しよう。この儀式を行う日は、実際に最後の晩餐が行われたとされる聖木曜日か、あるいは主イエスが復活された日曜日(できれば過越祭が行われる月の前半)がいいだろう。
この儀式は、主イエスが磔刑にかかる前に行われた「最後の晩餐」を模したものである。この儀式を7回行うことで、「屠(ほふ)られた子羊」すなわち主イエスと「婚礼」の契約を結ぶことになるだろう。また、主イエスの肉体と血を頂くことで、主の魂と一体となるとともに、我々の罪が清められていくのである。さらには、終末に訪れるとされる7年間の艱難も過ぎ越すことになるだろう。
悔い改めなさい。そして、主イエス大師が、我々人類の罪を贖(あがな)うために、十字架にかかられた救世主であると知りなさい。諸君らの罪、すなわちカルマを清算するには、この信心を主イエスより賜わり、かつ善行を積んでいく以外に方法はないのである。
神に全てを委ねなさい。諸君が聖霊からの洗礼を授かるか否かは、全て神の思し召しである。祈りと瞑想を常とし、神の恩寵が下りるまで、辛抱強く待ちなさい。
主イエスがどんな気持ちで十字架に掛かられたのか、その心の内を想像しなさい。自らの血によって全人類の罪の贖いをすることで、一人でも多くの魂を天の御国に連れ戻したいと祈っていたはずである。すなわち、父から命じられた、人類をサタンの支配から救済するという「強い使命」と、我々人類に対する「深淵なる愛」があったのである。
いかに主イエスが創造主ご自身だったとは言え、人間の肉体をまとって生まれた以上、「生き続けたい」という本能はあったはずである。主イエスはそのような葛藤を乗り越え、愛と赦しと非暴力によって、サタンの誘惑に打ち勝ったのである。
諸君が十字架上の主イエスのこのような心情を、涙を流すほど真に理解できた時、諸君は主イエスより信心を賜り、天から降ってくる聖霊を内住させることができるだろう。
神の代理人として生きなさい。神への祈りを常とすれば、自ずとインスピレーションが湧いてくることだろう。あるいは「シンクロニシティ」という形で、諸君に気付きが与えられることもあるだろう。そのような「神の啓示」に素直に従いなさい。
必要以上に貪ってはならない。物質的欲望には際限がなく、満たしても満たしても、心の渇きが満たされることはない。これは歴史が証明している。このような欲望を追い求めても、最後には苦しさと虚しさを残すだけである。最終的には神からも見放されるであろう。よって、この世の無常を追い求めてはならない。
真我を実現させて神と一体となれば、物心ともに全てが満たされる日が来るだろう。主イエス大師が「何よりも先に、まず神のみを求めよ」と言ったのは、このためなのである。
陰徳を積みなさい。そのためには、釈尊が定めた財施、無畏施、法施の三施の実践がいいだろう。これらを行ったとしても、決して周囲に誇ってはならない。さらに「無財の七施」も実践しなさい。特に和顔施が自然に実践できるように、常に心を明るく保ちなさい。日々のアファメーションの実践が役に立つだろう。
戒を守りなさい。戒とは、モーセがシナイ山で神から授かった「十戒」である。
『聖書』を読みなさい。この聖典を探求することは、諸君の智慧を高めるとともに、聖化(主イエスと似た者になること)の手助けとなるだろう。
忍耐強くありなさい。この道に入ると、数々の苦難に遭遇することだろう。これは、悔い改めの気持ちが起こることで、その罪悪感から過去のカルマが噴出するためである。その時は忍耐に徹し、神への信愛が途切れないようにしなさい。早く結果を求めるせっかちな者は、修行の勝利者にはなれないであろう。
カルマを解消しなさい。諸君の身に起きた一見不幸とも思える困難な出来事は、過去(あるいは過去世)での行いが因となって縁に触れ、結果として現れ出たものである。このようなカルマは解消されるまで、同じパターンで繰り返し諸君の人生に現れるのである。
憎しみには愛をもって返しなさい。これが実践できれば、諸君のカルマは劇的に解消されるだろう。常に自分の心を見つめ直し、反省と感謝の心を持って精進しなさい。
幼子(おさなご)のような純粋な心を持ち、素直でありなさい。神に対し、謙虚さと従順さを持ち合わせていなければ、霊的な目覚めが訪れることはないと知りなさい。
これから「ある星」が地球に影響を及ぼすことで、「人類強制クンダリニー覚醒」が起こる。この影響により、ほとんどの人間は気狂いとなり、発狂状態に陥るだろう。だが、私の助言を受け入れて正しく修行し、真我を実現した「ごく少数の者」だけは、逆に半霊半物質の体と神意識を持つ「神人」へと大いなる進化を遂げるであろう。
その数、『新約聖書』で予言された「14万4000人」である。
神の刻印を押された者、すなわち聖霊の内住者が14万4000人に達した時、キリスト者の携挙が始まり、同時にこの世界の終わりが始まるだろう。今は「異邦人の満ちる時」、すなわち「教会時代」は終わりを迎え、患難時代に入る前の過渡期にあたる。
神の真意に思いを巡らせてほしい。それは、我々が「神の愛」を感じることである。また、我々も神を愛し、真我を実現して、神の元へと帰還することである。神とは愛そのものであり、唯一の実在(在りて在る者)である。
信仰の篤いキリスト者が真我を実現すると、ハートにキリスト意識、すなわち聖霊が宿るのである。この状態になって神について思うならば、胸の辺りに熱いものを感じ、神の愛を実感できるようになるだろう。これが、我々が天の御国に入ることが許されたという「しるし」である。
諸君が「内なる神」を見つけ、神の至福を享受できるようになったら、これらの事を周囲にいる7人に伝導してほしい。このブログの存在を伝えてもいいし、あるいは自分なりの伝え方でもいいだろう。
世の終わりは近い。だが、「水を飲んでワクワクしながら生きる」だけでは、天の御国に入ることはできない。我々は決して「お花畑系スピリチュアリスト」たちの戯言に惑わされてはならない。人間とは得てして、耳に心地良い言葉だけを都合良く解釈して、受け入れてしまうものである。
諸君らが内なる神を見つけ、天の御国に帰れることを願ってやまない。つまづいたら、このブログを何度も読み返してほしい。必ずやヒントが見つかり、突破口が見い出せるであろう。このブログの救世の光が、何世代にも続くことを願っている。
「求めよ、さらば与えられん」
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