自閉という文化

2024/08/19の日記を転記(ちょっと加筆)
きっと思い返したい内容だから。


今日はいい日だったなー
自分の知識にすーーーっと線が結ばれるようなそんな感覚
藤枝で指導支援をやっている事業所の代表の方とお話しさせてもらえた。
重度訪問介護ができないなら移動は需要あるかも!と思っていた矢先だったのでナイスタイミングすぎる。
ナイスヒロコ(もちろん勤務内での移動介助の一環で)


人間は豊かになることで考える時間が生まれ、人間の生とか当たり前を疑うことになる
それが哲学だったり思想の始まり。
(全部コテンラジオの受け売り

ということで今の私にはどれだけ時間を与えられているのだろうとありがたく思います。
これが改めての前座

今日は朝からペスタロッチの一生についてのラジオを聞いて
人間って意図せずともなにかの価値を残してそれがバトンとして後世に繋がっていくっていう激えもを感じて鳥肌
ペスタロッチは保育士試験の勉強の時に覚えた偉人でまさか52才で教師を初めて晩年貧乏ながら農村貧民、戦争孤児などの教育を受けて来れなかった貧困層の子供達への教育に没頭し生涯を終える。
詳しくはYouTubeみてほしい

特に
「死ぬときに不幸だからといってその人の人生が悪いことにはならない(35分50秒)」
って言葉が妙に心に刺さった。

死という概念さえ無いんじゃないかって考えちゃうくらい腑に落ちる。
(コテンラジオ死の概念についての回もある。

そんなことを考えつつ、お話は障害者との関わり方について。

自閉といういわゆる‘障害’を文化として捉えてみるということ。
日本の文化、アメリカの文化、自閉という文化、
人がコミュニケーションの文化を作ってきたからといって分かり合えるはずはない。
分かりあう努力には価値があれど、分かりあうことは不可能
そして万人に共通する幸せの基準も存在しない。
発語のない言語をもたない人たちだって
この社会に生かされていて
この社会のルールに追いやられて肩身が狭そう‘かも’
これができた方がその人の人生が豊かになる‘かも’
ずっと同じ場所でぼーっとしているのが1番安心する‘かも’
なんて接したらいいかわからなくてずっとぼーっとしているだけ‘かも’

どれも確かじゃない
推測だって100%当たるわけないから
精度を高めるのではなくその文化時代を楽しむ

だとしたら福祉にできることってそれを確かめる選択肢の提供であり冒険でもある。


というようなことを教えてもらって
上にまとめたように解釈した

重い知的とか自閉の人たちって
人間本来の姿を私たちにお手本として見せてくれているんじゃないかって。
赤ちゃんが泣くのが仕事と言われるように
彼らがやりたいように生きるのが仕事じゃないかって

そう考えられると思った。
だってむしゃくしゃしたら一目を気にせず
「わxqfbぎゔぃーー!!」って叫びたくなることだってある。
叫ぶとか行動にはきっと理由がある
窮屈な社会に生きる人からすれば
むしろ羨ましく映るのかもしれない。

今はまだ
社会に順応していないと支援者が困ってしまう、そんな社会
でもこれから思いっきり生きるっていう仕事を全うする人が社会にたくさん出てきたらいいな。
まちで叫んだりしている人を見てありがとうって元気をもらえる
そうなったらいいな。
少なくともそんな人でありたいな

P.S.
今日は朝切って出てきたと思っていたエアコンがつけっぱなしになってて悲しかった

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