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不安な子供

不安な子供のことは、自分で大事にしておきたい。

私は不安な子供だった。それは怯えや情緒不安定とは形容されない、けれど気が弱い等という性格由来のものでもない。純粋に、不安な子供だった。

何が不安だったのかと聞かれると思い出せない。当時も明確にこれと言えるものはなかったのだと思う。言い換えると全てのことが漠然と不安だったのだと思う。

不安な子供になったのは小学校の5年生の始業式丁度からだったと記憶している。人間、何かきっかけとなる出来事でも無いとそうそう自分の心が変化した日付など覚えていないと思うが、私が不安な子供になった記念日は明確だ。なぜなら、私は自分の意思で不安な子供になったのだから。正確には、私は不安になりたいわけではなかった。「人畜無害な大人しい子」になりたかっただけだ。

私は小学3年生までいた小学校ではかなり活発で元気な方で、それ故か偶然か母親にしょっちゅう男子4人私1人という組合せで遊ばされていた。遊ばされていた、というのは私の母親のいわゆるママ友がその男子4人の母親達で、毎週誰かの家でお茶会が開催され、恐らくは「一人で子供を留守番させるわけにはいかない」という母親の正義感でその集会に私も同行させられていたのだ。

しかしそこで私は男子4人からいじめられていた。彼らは強かった。全員何だかという武術を習っており、追いかけ回されては技をかけられたり殴られたり蹴られたりボールをぶつけられたりした。しかし私は「活発で元気」な子供だったのだ。何をされても何を言われても、泣くわけにはいかなかった。笑顔で「やめてよ~」と逃げ回ることしかできなかった。私達の社会には時々別の女子が加わることもあったが、彼女達は大概たちまち泣かされた。泣かされた少女の母親は怒った。彼女達は1度きりで私達の社会には来なくなった。しかし私は毎週、放課後から夜10時頃まで追いかけ回され続けた。

誰が見ても男子4人に女子1人がいじめられている光景だっただろう。しかしその母親5人は誰一人としてそのことに言及しなかった。目の前で暴力が起きているのに。彼女達は私の笑顔に甘えていたのだと思う。ある日、男子の1人が私にぶつけるために放ったボールが母親席のグラスを割った。男子の母親は男子を叱った。私は愕然とした。私も割れないと守られないのか?ある日、私の家に来た男子が私が大切にしていたぬいぐるみを切り裂いて中の綿を全部取り出した。私より大きなぬいぐるみだった。男子が帰った後、母親は溜め息混じりに「これもう捨てなきゃね」と言った。私は裁縫が上手くなった。

4年生になり私は転校した。田舎町だった。私は暴力から解放された。そこの男子は皆、優しかった。私は「活発で元気」な子供として毎日しっかり生活した。そのうち、クラスの女子の一部が私を無視し始めた。まあそういうこともあると思った。女子の半分に無視されるようになった。私はもしかすると人にイライラされる人間なのかもしれないと思い始めた。最終的に、女子の1人を除く全員に無視された。私は私を無視しなかった女子にこっそり話しかけてみた。絵を描くのが好きな、とても静かな子だった。私に、というか誰にも、興味が無いようだった。一人でも平気そうだった。私はこの子になりたいと思った。

その頃、家庭で当時の私にとっては大きな出来事があった。父親に何か質問をされた時に私が「知らないよ」と言ったのが「知らねえよ」と聞こえたらしく、デパートで思いきり顔を叩かれた。それまでも似たようなことで叩かれることはよくあったが、この時はどうしても許せなかった。「理不尽」という言葉はまだ知らなかった。ただ全身で「理不尽」を感じた。

私は前の小学校で男子のいじめから、そして父親の理不尽から守ってくれなかった母親と、理不尽な父親に不信感を抱いた。この人達の前でもう二度と泣くまい、感情を表すまいと心に決めた。

そして5年生の始業式が来た。クラス替えでクラスのほとんどが知らない顔になっていた。私は騒然とした教室の中で一人自分との約束ごとを作った。「無表情・無感情・無口・地味」この時点でミスってはいるが、そこは5年生の私。仕方がない。4年生まで好んで着ていた大好きなフリルやレースのスカートは全部しまい込み、黒いパーカーとジーンズとキャップが私の制服になった。

不思議なことに、友達が大勢できた。というか、クラスの女子のほとんどが友達になった。休み時間は常に5人位のグループに属し、いろんな子の家に遊びに行った。今思うと、私は「出る杭」で小学生社会に打たれていたのかもしれない。それとも私がいけ好かない性格をしていたのかもしれない。どちらもかもしれないが今となっては完全に謎だ。担任にはいつも「幽霊かと思った」とか「どうしてそんなに無表情なの」とか言われていたが、狙い通りだったので全く気にしなかった。通信簿のひとこと欄にはいつも「口数が増えてきて安心しました」とか書かれていた。

そして、私が無事「人畜無害な大人しい子」としての自分を確立し始めた頃、不安はやって来たのだ。最初はお腹に来た。授業中、お腹が痛くてどうしようもなくなる。仕方がないので手を挙げてトイレに行く。そんな日が何日も続いた。あんまり私がトイレに行くのでそのうち私が立ち上がっただけでトイレに行ける制度が誕生してしまった。母親になんとなくお腹の調子が悪いと伝え、腸の薬を持ち歩くようになったが全く効かなかった。私は給食をあまり食べなくなった。食べると午後の授業に響くのだ。午前中は何も食べて無くても痛いのだからもう手の施しようがなかった。

不安の第2波として、私は家で漫画を読むかビーズ細工を作る以外の動作が全くできなくなった。漫画も「銀魂」か「セーラームーン」か「有閑倶楽部」の3種類しか読めず、何度も繰り返し読んでいた。それらの動作をする時は常にガムを噛んでいなければいけなかったので、私の部屋には常に3本くらいガムのスティックが常備されていた。それらの動作から少しでも外れると、たちまち私は莫大な喪失感と足元を掬うような不安で無表情が崩れてしまうのだ。お腹が痛くなったり足が震えたり呼吸がおかしくなったりもする。謎の寒気とかも。私はドアもカーテンも無いリビングから丸見えのプライバシーフリーな自室で、なんとか本棚の影に座椅子をセッティングして物陰で家での時間を凌いでいた。家族で出掛ける際にはイヤホンで繰り返し繰り返しビル・エヴァンスの「summer time」ばかり聴いていた。格好つけでも何でもなく、単純に音楽はそれしか知らず、それしか聴けなかった。全てが怖かった。

6年生で元いた小学生に戻ってきた。この頃はもう、私は不安な子供のプロだった。転校生の自己紹介で、声が出なかったのだ。小4まであれだけベラベラどこでも喋っていた私が、声が出ない。「人畜無害な大人しい子」という目標を大いに上回った結果を出してしまった。友達もできず特にいじめられもせず、空気のような存在として6年生は終わった。と思いきや、卒業間際に言われたたった一言がまた私を変えてしまった。

「論外」そう言われたのだ。私の後ろの席の男女二人がクラスの女子を付き合いたいとかタイプじゃないとか評論していた時のことだった。私は男子の方に「こいつは論外」と言われた。「無表情・無感情・無口・地味」が売りの私が何故かそこで猛烈に怒ってしまった。心の中で。「この男に目に物見せてやる」と思った。全くもってこの怒りとプライドがどこから来たのか分からない。

そんなわけで私は「中学生デビュー」とやらをした。同じクラスに例の「論外」君がいると分かるや否や、私は髪型ローツインテールの持ち物全部ピンクとうさぎ、話し方まで女の子、担任にまでちゃん付けで呼ばれる鉄壁のぶりっ子と化した。「論外」君の友達の男子にはもれなく全員媚びて媚びて媚び倒す。クラスで一番モテる陸上部の男子と付き合う。それでも飽き足らず目に付いた男子は全員殺す。戦争だった。男子を何だと思っていたのだろう。とりあえず普通にクラスの女子ほぼ全員に無視された。私は男子に「可愛い」と言われさえすれば他のことは完全にどうでも良かった。

中2からは私の「復讐心」も薄れ女子の友達もできてそれなりに楽しくやっていたが、不安がまた襲ってきた。私は復讐に夢中で忘れていたのだ、この莫大な不安を。当時私は吹奏楽部に応援団、塾にピアノに英会話教室と馬鹿みたいなスケジュールの中生きていた。しかも何故か委員長もピアノ伴奏も来るもの拒まずで引き受けていた。式典で吹奏楽の入場曲をやって走って応援団でフレーフレーとかやって学ランのまま校歌弾いて委員長の挨拶して退場曲をやっていた。キャパオーバーどころの話では無かった。私は壊れた。

また、お腹が痛くなるようになった。毎日。ただ中学校というデリカシーに欠ける社会の中で授業中に手を挙げて「先生、トイレに行きたいです」は私には恐怖でしかなかった。何を言われるか分かったものじゃない。文言を「先生、体調が悪いので保健室に行きます」に変えた。トイレに行った後保健室に行くと熱を測られた。私の中学校では発熱と怪我以外では保健室で休めないようだった。保健室に行けないと思うと余計にお腹が痛くなる。私はとにかく授業中の50分だけでも耐えるよう努めた。どうしても痛いときだけ「薬を飲みに行ってきます」と教室を出た。私は両親に自分の体調の異変を知られたくなかったので、どんなに体調が悪くても毎日学校へ行った。給食は、小学校の頃よりさらに食べられなくなっていた。

私の来るもの拒まずが私を壊したが、そのことで得た立場は却って役に立った。全校生徒が集まるイベントの際、クラスの列に並んでいる生徒が消えるよりは吹奏楽部や応援団、ピアノ伴奏者や委員長、すなわち体育館の後ろの方にいる生徒の方が圧倒的に抜けやすいのだ。この時期既に全校生徒が集まるだけでぶっ倒れそうになっていた私にとってはかなり好都合だった。

夏休み、異変が起きた。ぬいぐるみが手放せなくなったのだ。冗談ではない。本当に、自室からリビング、リビングから自室に毎日ブタのぬいぐるみを持ち運んで常に私の隣に置いていた。そうしないと、調子がおかしなことになる。そしてまた漫画を読む以外の動作が出来なくなった。今度は「有閑倶楽部」しか読めなくなった。小学校の頃より出来ることが狭まってしまった。繰り返し繰り返し何十回も読んだ。一人になると、こっそりぬいぐるみに話しかけた。ぬいぐるみが返事をしてくれている気がした。私はそうすると安心した。

高校生になると私はだいぶ落ち着いた。環境が良かったのだ。授業中にトイレに行っても誰も何も言わない。むしろ心配される。保健室は「なんか具合悪い」の一言で寝かせてくれる。私は「活発で元気」も「無表情・無感情・無口・地味」も「人畜無害な大人しい子」も「鉄壁のぶりっ子」も全て捨てて良くなった。楽だった。やっと、人間になった気がした。お弁当も食べられるようになった。そういや茶道部で同期から総無視くらって退部したことはあったが、書いてて思い出したくらいなので大したことはない。しかしどうも私はよく女社会で無視されるので今後の身の振り方は考え直すべきかもしれない。

ただ、不安定な所は残っていた。すぐお腹が痛くなる。すぐ貧血を起こす。最初は単純に体が弱いのだと思っていたが、段々精神的なものではないかと疑い始めた。だからといって相変わらず親に知られたくはなかったので私は適当に高校生活を過ごすことにした。適当にしている限り、案外限界を突破することは無い。中学の頃とは違って遅刻早退保健室の多い学生生活にはなったが、親には「サボりがち」程度の認識で済んでいたように思う。

ちなみにぬいぐる症は治っておらず、この頃には家でブタとうさぎとペンギンの3つのぬいぐるみを連れて歩いていた。高校の持ち物はアルパカまみれだった。さすがに高校に入ってからは自室にドアがあったので、普通に毎日ぬいぐるみに話しかけていた。ぬいぐるみだけでは飽き足らず布団と毛布にも悩みを相談したりしていた。返事が聞こえるような気がした。街でも売れ残りのぬいぐるみから「助けて、連れて帰って」という声が聞こえる気がしてその度に買っていたので私の部屋はたちまちぬいぐるみで埋め尽くされた。

ずっと本を読んでいないと辛いで症もまだあった。ただ中学よりは健康的で、これしか読めない!という感じではなかったので手当たり次第いろんな小説を読み漁る形になった。

大学に入ってからやっと、本当にやっとどうやら精神疾患らしいと分かった。健康診断でメンタル面で引っ掛かってスクールカウンセラーに呼び出され、それでようやく分かった。心療内科にもかかった。ただただ不安な子供だった私に名前が付いたことで、自分の状態がシステムとして分かり多少安心した。それと同時に、今まで散々苦しんだ時間は何だったんだろう、と複雑な気持ちにもなった。

その後も不安な子供状態はそんなには変わらず、というか素の状態で生きてみた結果なかなかアナーキーなことになってしまって、しかも鬱病とか双極性障害とか大層な名前が付いてしまったり随分派手な症状が出たり入院したりもしてなんかちょっと子供時代より厄介なことにはなったけれども、でも子供時代より限界状態ではないと思っている。

大きくなった私は、色々知っている。大きくなっても不安な子供のまんまだけれど、精神疾患のことも、症状のことも、自殺という手段のことも、休むことも、人に相談することも知っている。だから、子供の時よりも凄いことになっちゃったとしても案外大丈夫ではある。大きくなったから、選択肢がある。

でも、不安な子供だった私は当時完全に限界を突破していたと思う。あの頃ああしていれば…とかは思わないが、大人の責任、デカいなとは思う。

別に当時の周りの大人を恨んではいない。全く。だって、人には人の考えがあるから。それに私、相談しなかったし。でも、私が不安な子供の親なら子供を叩かないし、いじめられているのを見たら相手の子供の母親に啖呵切って…いや方法がちょっと難しいけどとりあえずママ友の集まりに行くのは止めるし、子供が毎日お腹壊すようになったら話は聞くし、学校休んでもいいよって言うし、行動が怪しくなってきたらカウンセリングに一緒に行くし、あと…心療内科に通ってることが分かったら保険証も薬も取り上げないかな。話を聞いてサポートに回る。

私が保健室の先生だったら、毎日お腹痛い生徒にはとりあえず話を聞く。保健室に入れるし、入れられないなら保健室を口実に授業抜ける許可はあげる。私が学校の先生なら…毎日授業中トイレに行く生徒には話を聞く。スクールカウンセラーの存在を教える。せめて、先生として先生の行動を取る。

私の両親は今、アナーキーなことになっちゃった私を見て少し変化したようだ。精神病院にも行かせてくれるし薬も取らない。鉄拳飛ばしてた父に関しては、私のことをちゃん付けで呼んでくるしお菓子とか買ってくれる。幼少期にやってくれてたらと思わなくもないが、これはこれで嬉しかったりもする。

私はもう「大人」らしい。年齢的には。社会的には。中身は不安な子供からあまり変わってはいないだろうけど。まあ、大人でも子供でもなんでもいい。これからは、不安な子供をみつけたら、一緒にお話くらいはできると思う。助けるだとかデカい口は叩けないけど、お話ならできる。一緒に遊ぶこともできる。不安な子供を少しだけ安心させられるかもしれない。

近頃不安な子供であるところの私がひょっこり顔を出して、読みやすいミステリー小説しか読めないで症になってしまった。ついでに寝れないで症と怖い夢を見るで症も来た。ぬいぐる症は卒業。ミステリー小説切れになるのが怖くて週に5冊とか買ってしまう。読み切ったら読み切ったで、昔読んだのを読み返せばいいだけの話なのだけれど、そう簡単にはいかない。

何がそんなに怖いのかしら?集中がミステリーから逸れることだろう。自分の現状に対する不安に目を向け続けると壊れてしまうので逃げ場としてミステリーへの没入をしている。自分の現状を良くするために行動してギリギリ限界手前でミステリーに逃げ込む、という動作を繰り返している。延々ミステリーから出てこないよりは成長したと思いたい。

そういや大きくなってからも「江國香織症」「マーベル映画症」「村上春樹症」「YMO症」あとは忘れたけど…なんかいっぱいやってたな。これはこれで文芸や映画や音楽への造詣が深くなるということで悪しからず。依存体質といえば依存体質なのだろう。まあ依存対象が芸術ならば、それはそれで豊かなことで。お前今文章を書くことに依存してるぞという声もちらほら聞こえますが、それもそれで文章力がつくのでいいんじゃないですかね。ついでに言葉にキレも欲しいけど。ああ、外が明るい…

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