【七峰】「ピンチの連続」を自演する者に光は差さない
【日報】2024/11/02付
徹夜して身も心もボロボロにならないと「死にたい」の裏側にある「生きたい」を感じられない。
このどうしようもない自傷と自慰行為を10年以上も続けてしまっている。
思いつきのアイデアを「きっとこれは面白いぞ!」と深夜テンションで現Xに流して、目に見える反響はなく、インフルエンサーの作る「界隈」の熱狂を蚊帳の外から見るたび、世間と自分のズレ、すなわち疎外を感じる。
自業自得でもあるし、ネットでバズることと世界の半分を怒らせることには相関関係がある。いいことずくめではない。
そもそも、政治的正しさの追求が世界をホワイト化するからと、なんでも言いたい放題書いていた旧Twitterでのアカウントを一度捨てたのに。
ただ無批判に好かれたいだけの僕にはネット上に渦巻く悪意(強い憎悪といっても過言ではない)はとても耐えられるものではない。
結局僕は誰かと共感したくてことばを送信し続けているだけだ。そこにコミュニケーションの奥ゆかしさなど存在しない。一方的に自分の思想を誰かに押し付けて同化したい、それだけだ。
「死にたい」ということは「生きたい」ということだ。少なくとも僕にとっては。
死の苦しみを味わう瞬間瞬間に、せめて生きることを自分の思うままにコントロールしたいという欲望が働く。
だけど、この「徹夜のし過ぎで死ぬかもしれない
」という不安は、自分の不摂生が生み出した……つまり自分の生を自分でコントロール不能に陥った末路なのだ。
これじゃからだにいいわけないよ。
わかっちゃいるけど、やめられない。
(了)