別人になった
noteをはじめて自己紹介までした手前、何か書かねば紹介に自己が追い付かないのでここに自己を記述します。とはいっても自分というものは自分にかんするあらゆる言明をすり抜けて行く永遠なる「それ」であるので、ひとまず自己は「それ」と名指せば満足です。自己紹介が自己を取り逃がしてその存在論的定義から外れ、その意味で自己となること、これこそが時間の証左であって、聖アウグスティヌスよろしく時間とは何か、時間は測れるのか、を考えこんで悶々とするとき、やっぱり時間の定義は時間を捉え損ねて、新たな定義も損ねつづけて、定義が次々に使い物にならなくなってバタバタ倒れ死んで行く、それこそが時間じゃありませんか。
じゃあこの私、いま、これを書いている私を「私」と名指すのもなんや変な感じがしますなぁ、変な感じというか、それは端的に欺瞞です。もはや自己ならざるものを自己です、いうてフフンと安穏の構え、そのくせ語尾だけは「です」「ます」「である」「思われる」でまじめ腐ってしかめ面で、どうですこれが知的誠実、あほらしやあほらしやあほらしや。んでいくら騒いでもやれやれと訳知り顔に呆れて見せて、言明主体を、「それ」とぼかして誠実なりとは、片腹痛い解しがたい、「私」を「それ」に置き換えたって、「それ」の文法は用法は、「私」とばっちり同じじゃないか、ぴったり重なったふたつは相互に置き換え可能で、差異はなく、ゆえに「それ」「それ」「それ」と連呼しつづけるきみの知的誠実も、「私」と重々しく告げる我々のそれと、なんら変わりはないじゃないか、主語は「私」でも「それ」でもよくて、つまり何でもいい、きみは、言語が使用であることを、また差異の体系であることを、まったく理解していないようだ。
そういうわけで議論を経て、「私」は「それ」でも、「イカ」でも「もずく」でも「積み木」でも「エンターキー」でも良いということになったので、これからの筆記はそんな具合で、や、でもどっかの小説に、名前がないとセックスが盛り上がらない、そのもの固有の名前を互いに呼び合わないことには、いくら固めてもすぐに萎えてしまうとか書いてあって、それは直観にも反しないので、来るべきセックスのために、どうしても名前は必要であるらしいのです。セックスなぁ。ほんなら、大学院に入った瞬間に研究のやる気を失った、その顛末を「私」「私」と連呼して、それ以外の呼称を排除して書くにあたって、いつも思考の、あるいは視野の片隅に常にセックスがちらついておらねばならくなる、そしてそのセックスは「来るべき」ものに過ぎず不確定的で、いつなのか、誰となのか、どんなふうなのか、その一切が明らかでない、「その」セックスに過ぎないセックスに向かってやあセックスよ、きみの、名前は、と尋ねるのは、あまりに酷であるような気がするので、これについては一切の記述をためらってしまう。沈黙が配慮として有効なのかも定かではないけれど、ひとまず研究をやる気のなくなったその過程はおおっぴろげに書き立てて、「私」「私」をがしがし挿入して、不埒に好き勝手に書いてしまおう、だけど今日はもう遅くてなんや眠いので、それはまたいつか、なにせ、やる気のない院生なもんで。