眠りから目が覚めると一瞬光を浴びる。その光はわたしを捉えるがそれは一瞬なので消えて幻影になる。 その幻影を追いかけることはできない、そしてまたいつ会えるかどうかもわからない。 時々感じる眩しいような光ではなく、淡く慈愛に満ちたそれは心を満たしてくれる。 光なんて見たくない、と貴方は言う。光=幸福にすると幸福はやはり刹那的であるから、ただただ痛みだけが残る。 ただわたしが望んだ光もまた刹那的ではあるが、また何度でも出会いたい、と中毒者のように思う。それはなぜか。現実を忘
詩を書いていると、詩が自分を覆い被さり、本来の意味から遠ざかる感覚がある。書いても当初の本質には届かないようなもの。 それは書いて、推敲したとしてそれでも捉えられない。意味が意味を連れ出すのか、意味がなくても意味になる作品もあり、伝えたいことから遠ざかる。 意味が表層化した詩が書きたい。最近の想いはそれです。 ストーリーがある詩で人の心を騒めかせ、一本の大樹のような詩が書ければ本望です。
10年経った今の俺は10年前の俺を笑い飛ばすことはできなかった。あの頃と、現在の俺は状況も違うし比べれば精神的に変わった部分もある。もうあの頃のように彷徨いながら人と人との関係に溺れることはない。現在を抱いた関係性と生活を保つことで安心しようとしている。閉塞感に苛まれることはあっても、ここしかないと思ってる。何も憂うことはない。ただ10年前の俺を笑えなかった。笑えなかったんだよ。
人生に意味はない。それは確実だろうとは思う。だからその意味を探し求めているわけではないけれど、ただ、誰かと出逢ったり話したり、もしかして相手と通じ合ったり、そういうことが嬉しさよりも、とてつもなく虚しいと感じる。 そう思うと、なんて人生は無常なのだろうとただただ泣いてしまう。 何も不幸なことは起こってはいない、それなのに、現実のわたしの世界の矮小さに心が打ち拉がれ、喪失感に覆われてしまう。失ってはいないのに、確実にわたしのなかで消えゆくものを感じる。 怖いとは違う、恐ろしいと
言葉は残り続ける、消えない、誰かの心臓の釘になるかもしれないのに、毎日毎日世界は言葉で埋め尽くされる。見たくないことが多い、狭心なのだろう。知ることが罪か知らないことが罪か、わからない、歳を重ねるごとに正解がわからない、それでも生きていくなかで大小の選択は必ずあり、もうわたしはなにもかもが嫌になった。 本当に優しい人はいないのかもしれない。 本当に正しい人はいないのかもしれない。 何を信教するかで各々の道は分かれて、それは十字路に立つことかもしれない。 それでもいずれ、交差
他人の為に泣く涙よりも自分の為の涙が本物。 なにもすることがない、は厳密には違う。なにもしたいことがない、が正しい。焦燥感ばかりが夜でもないのに黒い霧になって追いかけてくるから、憂鬱で仕方ない。 海に行っても退屈で欠伸をするに違いない、出不精でだらしない、金はない、年々顔面偏差値も下がってきた、良いところなんてない。すぐに嘘をついて悦に入って、気が紛れたらゲームしてさっきまでの神妙さなんてその顔にないよ。何か語れば何かにカテゴライズされて、ポジティブネガティブ、言葉そのもの
傘と包帯第八集に参加しました。ねはん名義です。宜しくお願いします。 https://note.com/kasatohoutai/m/m8f4bb46f9c37
2度目ですが、今回も傘と包帯で詩を書かせて頂きました。気になった方はどうぞ。ねはん名義です。https://note.com/kasatohoutai/m/m8f4bb46f9c37
インターネット詩誌「傘と包帯」第七集に初参加しました。僕のペンネームはねはん名義です。他の方々も才気溢れる作品集になっています。お暇な時にでも読んでみて下さい。 https://note.mu/kasatohoutai/m/m7470a18a682b #かさほた #詩