無限円環式休日
今日は一時間くらい外を歩いていたのだけどあんまりキョロキョロしなかったのでもったいないな~と思う。すっかり慣れた最短ルートをいってしまった。あとその一時間でしっかり風邪ひいた。風邪てか発熱。弱すぎる。
休みの日には日付がない。数年前と同じ日を何回でも繰り返している。
(といっても、平日だって同じことの繰り返しにちがいないのだけれども、ただ第〇期とか納期とかで日付を意識しなければいけないので、その感覚が薄いだけだ。)
別に変り映えしないから、とか、たいしたことをしていないから、というわけじゃない。すごく思い出深いことがあって、それを誰かと共有したとしても、それがほかの年のほかの日付ではいけない理由はない。花は毎年咲く。
現在はつねに過去の典型であり、現在のかたちに応じて過去が何度でも再生産される。といって、現在がつねに先行しているというわけではない。現在を構成するのはすべて過去にあった経験的な素材、または形式だからだ。過去は現在にあって、現在は過去から紡がれている。そうしたウロボロス的な円環をわたしは経めぐっている。
この円環からはずれているのが未来だ。わたしは未来のことはなんとなく好きだ。まだ見飽きていないというそれだけの理由で。
ふしぎなのは「わたしがこのよう(いまこうしてあるような存在の仕方)でなければいけない理由」が過去にも現在にも見当たらないことだ。それは未来から照らされるものなのだろうか? 未来のわたしが見ている夢が、現在のわたしなのだろうか?
最近考えるのは「ひとひねり」、simple twist だ。ボブ・ディランやヘンリー・ジェイムズにならっている。これがなければ、物語は面白くない。平面的な、つまり乃し梅のようなのっぺりだらりんとしたものは誰でも作れるが、これではよくない。メビウスの輪のように、あるいは地殻変動のように、立体的なひねり――それは平面世界のことだけでなく、時間軸においても――がなくてはならない。それを付け加えられるのは、おおきな存在だけだろう。登場人物の役割の範疇を超えている。鉄道模型を作るように考えなくてはならない。