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ユングを詠む_(019)『タイプ論』の序論、内向と外向

ユングを詠む_(019)『タイプ論』の序論、内向と外向と補償

◎気付き
 リビドー・心的エネルギーの向かう先とか流れみたいなものを内向・外向の中にユングは見ているが、リビドー・心的エネルギーって物理的に計測するとどんなものなんだろうか?

1.     イントロ

『タイプ論』https://amzn.asia/d/2t5symt [3]の内容に触れていこう。
 
まず、『序論』から。
 
目次は長いので本稿では省略。ユングを詠む_(018)『タイプ論』の読み方 をご参照方。

2.     内向型と外向型、そして補償作用


CGユングが臨床医として最初の気がついた人間心理のタイプが、内向型と外向型だ。だから、このタイプ論は経験的なもの帰納的なものである。当てはまらない事例・ケースもあることを承知しておく必要がある。
 
ユングがタイプの概念に気がついた時はこんな印象を持っていたようだ。
 
外向について。

人間の人生の歩みを観察してみると、一方の人の運命はむしろ彼の関心の対象によって影響を受け、

[3]p9

内向について。

他方の人の運命はむしろ彼自身の内面によって・彼の主観によって・影響を受けていることがわかる。

[3]p9

あなたの人生では、両方の経験があるのではないでしょうか?一方しか経験がないという方はいるでしょうか?
 
私の場合には小学生の時に読んだ伝記とか親を含めた周囲の人たちの影響は大きいと思う。これは外向型。一方で、自身の中にある価値観に対してはかなり頑固なところがある。例えば選択の自由には非常にこだわる。否応無しにこの団体に入れとか使ってなくても料金を払うのが義務と言われると反感を抱く。今は自分の価値観を大事にする内向の方が強いと認識している。内向型だからと言って外向がない分けじゃない。
 
そんなように、重要なことは、この2つのタイプのメカニズムを誰もが持っていること。相対的に優位でほぼ常時見られる方をその人のタイプという。片方しかないということはないということ。
 
ユングは、内向と外向について『タイプ論』の中でことあるごとに説明している。かなり抽象的になった説明であるが、主体(自分)と客体すなわち周囲の家族や友人、クライアント、知り合い、時には偶像など心的シンボルも含めてとの関わりが必要なことが見えている。決して孤立してはいないのだ。

一般的には内向的立場は次のように特徴づけることができよう。すなわちこの立場はいかなる時でも自我や主観的心地的は事項を客体や客観的な事項よりも上に位置する。あるいは少なくとも客体に対抗しようと努めるものである。

したがって、この構えは客体よりも主体により高い価値を与える。(中略)

つまりこの場合大事なのは理念なのである。

あるいは客体が感情の対象となっても、その場合大切なのは感情体験なのであって、客体の現実的な個性ではない

[3]p12

随分、自己中心的な性格と誤解される向きになる。実際、誤解されることが多いとユングも書いているし私も経験している。鼻持ちならないやつに見えるそうだ。

一方、外向的立場はこう説明される。

主体を客体より下に置き、客体に高い価値を与える。主体は常に副次的な意味しか持たない。つまり、主観的な事項はしばしば単に客観的事項を妨害する余計な添え物にしか思われないのである。

[3]p12

内向型に比べて人に従順で、付き合いやすそうな人に感じられる。しかし、度を超えると客体に依存してしまい自我の薄い人となり、自立とか自律からは縁遠い人格になってしまうように思う。

まとめるとこう書いている。

こうした対照的な2つの立場から生まれる心理が完全に異なる2つの方向に分裂せざるを得ないのは明らかである。一方は何事も自分の見解を視点として見るが、他方は客観的な出来事を視点として見るのである。

[3]p12

そして、次に“補償作用”について強調している。

タイプの一面性を補償しようとする特別な傾向が、すなわち心の平衡を保とうとする意味での生物的に合目的的な傾向が、内在している」

[3]p10

先ほど、内向と外向で極端になったら困るよなって例を書いておいたように、バランスが取れていないと人格・性格が嫌なやつになることは想像できよう。だから“補償”という心的な機能があるという。この機能がうまく働かないと困るのである。
 
ユングはこの辺りをこう説明している。

自然の成り行きとして、一方のメカニズムが優位に立つことになる。そして何らかの事情でこの状態が慢性化すると、そこからタイプが、すなわち習慣となった構えが生まれるのである。

そうなると一方のメカニズムが持続的に支配することになるが、そうかといって他方のメカニズムを完全に押さえつけることはできない。というのは他方のメカニズムもはっきりと心的生命活動に属しているからである。

したがって、全く一方のメカニズムだけを備えていて他方のメカニズムは完全に退化している、という意味で純粋なタイプはあり得ない。

あるタイプの構えとは常に一方のメカニズムの相対的な優位を示しているに過ぎない。

[3]p12~p13

後々説明が書かれているが、他方のメカニズムを完全に押さえつけると異常な反応や行動を起こすことがあるという。要は病的な状態につながるそうである。

内向と外向、そして補償の定義については、(016) 「『タイプ論』から『MBTI®︎』へ」
に既に記載したが、あらためてもっと詳細に書いておこう。

その前にリビドーって何かの説明。

“心的エネルギー”とユングは定義している。自分のメモのために文末にユングの詳細な定義を書いておくが、心的エネルギーでいいでしょう。エネルギーは高校物理で習うエネルギーと同じ。私は心が実装されている神経組織を動かしている糖質などのエネルギー代謝と解釈している。

腹が立ったり悲しかったりすれば心的エネルギーが大量に使われて疲れる。とか、美しいものを見て興奮して心的エネルギーが使われたってイメージになるだろう。

ただし、内向に関してのエネルギーの流れが何か興味深いので後程触れる。

 まず外向の定義から。

外向とはリビドーが外へ向かうことを意味する。

私(注;ユング)はこの概念によって、主体が公然と客体に関係していること・すなわち主体の関心が積極的に客体に向けられている状態・を表す。

外向的な状態にあるものは全て客体との関連において考え感じ行動する、しかもそれが外から見てはっきり見てとれるような直接的な形でなされるため、彼が客体に対して積極的な構えを持っていることは疑いなく明らかである。

したがって外向とはいわば関心が主体から客体へ移ることである。外向が知的であれば主体は客体の中に没入して考えるし、感情的であれば主体は客体の中に没入して感ずる。外向の状態にあるときには、客体だけにないにせよ、これに強く左右される。

外向的になるよう意図的に意欲されている時には能動的外向と呼び、客体が外向的になるように迫っている時、すなわち場合によっては主体の意図に反してでも客体に方から主体の関心を引きつけるときには受動的外向と呼ぶことができる。

外向の状態が習慣的になると、外向的タイプが生じる。

[3]p461

そして、内向の定義。

内向とはリビドーが内へ向かうことを意味する。

これは主体が客体に対して消極的な関係を持っていることを表している。関心が客体に向かわずに、客体から主体へ引き戻されるのである。

内向的な構えをとる人は誰でも考え・感じ・行動する・さいに、はっきりと見分けがつくほどに、何よりも主体が動機づける側ではあり客体はせいぜい副次的な価値しか持たないという態度をとる。

内向はより知的な性格をも、より感情的な性格をも持ちうる。同様にそれは直観や感覚によっても特徴付けられることができる。

内向が能動的であるのは主体が客体を何らかの形で排除しようと意図するときであり、受動的であるのは客体から逆流してくるリビドーを再びか客体に戻せない時である。

内向が習慣的になっているときに内向的タイプと呼ぶ。

[3]p475

読んでいて気がつくのは、客体とのやりとりがないと内向の心的機能は動かないようだ。だから、主体だけで一般的態度外向・内向が活動することはないのか珍しいことなのかもしれない。外との関連が必要なのかもしれない。

そして、心的エネルギーが客体と主体との間で流れがあるように説明されている。具体的にはどんな流れなのだろうか?何かテレパシーのようなスピリチャルなものを想像してしまう。

しかし、リビドーの説明にあるように「特殊な心的能力というものが存在するか否かという問題はリビドーの概念とは何の関係もない。」そうなので科学で説明つかないものではないようだが、私にはその機序がわかっていない。

というわけで今回はこんな気づきというか課題が残って終わる。

リビドー・心的エネルギーの向かう先とか流れみたいなものを内向・外向の中にユングは見ているが、リビドー・心的エネルギーって物理的に計測するとどんなものなんだろうか?

今回はここまで。リビドーと補償の定義をここに書いておく。

 リビドー(Libido); 私(ユング)はリビドーを心的エネルギーと理解する.
心的エネルギーとは心的な出来事の強さであり、その心理的価値である。心理的価値は、道徳的・審美的・知的な価値のように他から与えられる価値と理解されるべきではなく、むしろその価値は自らの決定力によってのみ定まってくるものであり、この決定力は特定の心的作用(「仕事」)として表現される、批評家はしばしばリビドーを心的な力と誤解したが、私はそのように理解していない。私はエネルギー概念を実体化しておらず、それを強さないし価を表す概念として用いる。特殊な心的能力というものが存在するか否かという問題はリビドーの概念とは何の関係もない。私はリビドーという表現の代わりにしばしば「エネルギー」という言葉を使う。

心的エネルギーをリビドーと呼ぶ根拠を、ユング『リビドーの変容と象徴』p119などに述べておいた。


補償 (Compensation):

 私(ユング)は補償という概念を広く機能間の相殺として・心的器官の自己制御として・理解する。この意味で私は無意識の活動を、意識機能によって生じる構え全体の偏りを相殺することと理解する。心理学者はよく意識を眼に例え、意識の視野とか視点という言い方をする。この例えによって意識機能の本質が的確に特徴付けられる。すなわち最もよく意識されるようになる内容はごく僅かだし、意識野の中に同時に留まれる数も限られている。意識の活動は選択的なのである。選択は方向付けを必要とする。しかし方向付けのためには関係のないものは全て排除することが必要である。このためにその都度必ず意識の方向付けにある種の偏りが生じる。選択された方向づけによって排除され阻止された内容は差し当たって無意識に沈むが、しかし依然としてその作用が存在するため、意識的な方向づけに対する反作用を形成し、その反作用は意識の偏りが増すにつれて増大し、ついには苦しい緊張をもたらすことになる。この緊張は意識の活動をある程度阻害するように働くが、しかし当面のあいだは意識の努力を増すことによってこれを打破できる。

しかし持続的にこの緊張が高まると、阻止された無意識内容や夢が「勝手に浮かんでくる」イメージを通して意識に伝えられる。意識の構えの偏りがひどくなるにつれて無意識に由来する内容はより対立的になるため、意識と無意識はそもそも対立的なのだと言えるほどである。

こうした場合になると補償が対立する機能の形をとって現れてくる。これは極端な場合である。普通は無意識による補償は対立的なものではなく、意識の方向づけを相殺したり補ったりするものである。

例えば夢の中で無意識は、意識の状況に対して布置されながら意識の選択によって抑圧されている内容を全て示しているのであり、意識が十分に適応するためにはこれらの内容を知ることが不可欠であろう。

正常な状態では補償は無意識的である。すなわち意識の活動を無意識的に制御する働きをしている。神経症においては無意識が意識と激しく対立するため、補償が損なわれてしまう。したがって分析的治療は無意識内容の意識化を目的とし、その方法によって補償を回復させようとするのである。

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参考文献[1] MBTIタイプ入門(第6版)https://amzn.asia/d/gYIF9uL
 
参考文献[2] MBTIタイプ入門 タイプダイナミクスとタイプ発達編https://amzn.asia/d/70n8tG2
 
参考文献[3] 『タイプ論』https://amzn.asia/d/2t5symt
 
参考文献[4] ユングのタイプ論に関する研究: 「こころの羅針盤」としての現代的意義 (箱庭療法学モノグラフ第21巻) https://amzn.asia/d/aAROzTI
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こころざし創研 代表
ティール・コーチ 小河節生
E-mail: info@teal-coach.com
URL: 工事中
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