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愛するということ-あるエグゼクティブコーチのコメントから
こんにちは。
久しぶりの投稿になりますが、前回書いた今後の展開とは違った内容になった。
この4月からは、いわゆる「ソース理論」のベースとなる手法、Money-Workを青野英明さんを講師に実習・実践を交えて学んでいる。
本題に入る前に、Money-Workとは。
マネーワークとは、一言で言えば「自分を取り戻すための身体感覚との対話」です。その名称から「もっとお金を稼ぐためのワークショップ」と思われがちですが、本質的に問われているのはお金そのものではなく自分の全体性を取り戻すことです。
思考ではなく身体感覚に問いかけることで、本来の自分の姿を探っていくのです。
私ごときが補足説明するのは僭越ですが、あなたがお金そのものやお金にまつわることへの、不本意な結果、感覚・感情、イメージ、認識等が、あなたの心の中にあるどんな信念、偏見、固定概念などから来ているか探ります。
クライアントとプラクティショナーの対話を通うじて、感覚・感情、イメージ、認識等を中庸にしていくワークです。
私は中庸という言葉に加えて、デトックスというか毒気の中和の印象を受けます。
お金が対象になっていますが、対象はお金でなくても構いません。ただ、お金は生物でも人でもないので、私たちの持つ信念、偏見、固定概念などが歪みなく投影がされるので変動要因がなくてやりやすいという考え方です。
それで、本題に入りますが、このワークのプラクティショナーに必要な資質をある受講者が質問しました。答えは、「愛するということ」の”愛の基本要素”そのものです。
この日は、青野さんに加えて特別なプラクティショナーをお招きしてもワーク。普段はCEOレベルのクライアントさんにエグゼクティヴコーチングをされている方で、その回答はこんな感じ。なお、原文は英文で翻訳したものです。
自分の内面も観察します。- クライアントとの間だけでなく、自分自身との間でも。ワーク中は、自分の体感を観察し、自分の考えに耳を傾けて、より深く導くことができるようにしています。
愛 - 私は、一緒にワークをするすべてのクライアントさんに恋をしています。たとえ断片的なことしか知らなくても、皆さんのストーリーや人間性に深く共感するのです。
信頼 - 直感を持ったら、それを試してみてください。もしそれがクライアントにとってはピンとこないとか響かないものなら、手放します。クライアントがその場でできる限りのことをやってくれると信じて。
ユーモア - この仕事は、かなり深く、重くなることがあります。ユーモアのセンスを持ち、深さ/深遠さと明るさ/ユーモアの両極を持ち合わせることが良いと思います。
好奇心-人間の心理を探求することは、果てしなく魅力的です。この仕事をするときは探偵のような気分で、好奇心に導かれるように行動しています。
多数のプラクティショナーやコーチングインストラクターに就きましたが、同じことを言われる人のことを複数人、思い出した。同時に、フロムの「愛するということ」にも書かれていることと共通だなとも思い出した次第。
対人サービスを行なっていく者にとって「愛するということ」は欠かせないことの再認識の今週だった。
どんな形の愛にも、必ず共通する基本的要素がいくつか見られるが、ここにも愛の能動的な性質が現れている。その要素とは、
配慮、責任、尊重、知である。
愛に配慮が含まれることをいちばんはっきりと示しているのは、子供に対する母の愛である。
もし、ある母親に子供に対する配慮が欠けているのを見てしまったら、つまり子供に食べ物をあげたり、風呂に入れたり、快適な環境を与えるのを怠っているのを見てしまったら、たとえその母親が子供を愛していると言っても、その言葉を信じることはできないだろう。
反対に、母親が子供のことをあれこれ気遣っているのを見れば、その愛に打たれるだろう。
動物や花に対する愛情の場合にも同じことがあてはまる。(中略)
愛とは、愛するものの生命と成長を積極的に気にかけることである。
この積極的な配慮のないところに愛はない。(p47)
配慮と気遣いには、愛のもうひとつの側面も含まれている。責任である。
今日では責任というと、たいていは義務、つまり外側から押し付けられるものとみなされている。
しかし、本当の意味での責任は、完全に自発的な行為である。
責任とは、他の人が、口に出すにせよ暗黙のうちであれ、何かを求めてきた時に、応答することである。
「責任がある」ということは、他人の要求に応じられる、応じる用意がある、という意味である。(中略)
愛する人は、自分自身に責任を感じるのと同じように、仲間にも責任を感じる。
この責任は母子関係について言えば、生理的欲求への配慮を意味する。大人同士の愛の場合は、相手の精神的な求めにも応じることである。(p49)
愛の第3の要素である尊重が欠けていると、責任は、容易に支配や所有へと堕落してしまう。
尊重は恐怖や畏怖とは違う。尊重とはその語源(respicere=見る)からもわかるように、人間のありのままを見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである。
尊重とは、他人がその人らしく成長発展していくように気遣うことである。したがって尊重には、人を利用するという意味は全くない。
私は愛する人が、私のためではなく、その人自身のために、その人なりのやり方で成長していって欲しいと願う。
その人と一体感を味わうが、あくまでありのままのその人と一体化するのであってその人を私の自由になるようなものにするわけではない。
いうまでもなく、自分が自立していなければ、人を尊重することはできない。つまり、松葉杖の助けを借りなくとも自分の足で歩け、他人を支配したり利用したりせずにすむようでなければ、人を尊重することはできない。
自由であって初めて人を尊重できる。(p50)
その人に関する知によって導かれなければ、配慮も責任もあてずっぽうに終わってしまう。いっぽう知も、気遣いが動機でなければ、むなしい。(中略)
自分自身に対する関心を超越して、相手の立場に立ってその人を見ることができた時に初めて、その人を知ることができる。
例えば相手が怒りを外にあらわしていなくとも、その人が怒っているのがわかる。
もっと深くその人を知れば、その人が不安に駆られているとか、心配しているとか、孤独だとか、罪悪感にさいなまれているということがわかる。
その人のことを怒っている人としてではなく、不安に駆られ、狼狽している人、つまり苦しんでいる人として見ることができるようになる。(p51)
話変わって、先回のブログの後書きでこんなことを書いた。
プラトンの「肉体は魂の牢獄である」はフロムは引用していないが、この世に生を受けることは、つながりを解かれ独房に入れられるようなものである。独房の中からつながりを回復することはトランスパーソナル心理学でできないものであろうか?
こんな観点から、「愛するということ」のスピンオフ編を考えてみたい。
https://note.com/no1coach/n/n0a896c784afe?from=notice
今日2023/06/18から毎月、「本を読んでなくてもいい読書会。」というのを他に2名の共同主催者を迎えて開きます。
その中で、他者とのつながりを感じていくことも取り上げていこうかと目論んでおります。まだ、友人限定ですが、将来的には拡大検討中。
ここまで読んでくださった方にありがとうございます。
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こころざし創研 代表
ティール・コーチ 小河節生
E-mail: info@teal-coach.com
URL: https://teal-coach.com/
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