『ふるさとは貧民窟なりき』 - 小板橋二郎

現在の東京都板橋区に、その昔「岩の坂」と呼ばれるスラムがあったのだそうだ。空襲で焼失し、戦後の復興で姿を消したが、これはそこで幼少期を過ごした著者自身による回顧記録だ。

ちなみに現在でもぽつんと「縁切榎」という縁切り神社があるのだが、およそあの辺りらしい。岩の坂は別名「縁切り坂」とも言い、このスラムとは互いに切っても切れない因縁があったのでは? と思ってしまった。ただ成立時期が随分違う(縁切榎は江戸時代からあった)ので、関連があるとすればスラムの方が引き寄せられてきたのだろう。

スラム研究にはいくつか名著とされる本があり、松原岩五郎『最暗黒之東京』、横山源之助『日本の下層社会』、紀田順一郎『東京の下層社会』などがそうらしい。こういった本からの引用も多く、序盤からかなり意識しているのが分かる。最後まで読んで分かったのは、当事者として一貫して、そのようなスラム研究に対するアンサーとしてこれを書いていたのだということ。裕福な家庭で何不自由なく育ったような奴が、スラム街を初めて見て勝手に衝撃を受けて、まるで鬼ヶ島でも見るかのように「我が揺籃のスラム」を観察対象として大袈裟に書き立てていたら、一言言ってやりたくもなるだろう。気持ちは分かる。——「気持ちは分かる」という気持ちになれただけ、僕はこれを読んで良かった。それがこの本の存在意義なのだ。

私の経験によれば、なかでも偏見や人種差別に激しい憤りをかくさない良心派の、インテリといわれるたぐいの人ほど、こちらのいいぶんに懸命に耳を傾けながら、「しかし」とかならず反論する。「むろん、それはそうでしょうけど、あなたのようにいわば特殊な育ち方を経験していない人間にスラムをこわがるなといっても、やはりそれは無理です」。こういう人々ほどスラムに旺盛な好奇心や同情心を持とうとするのも一般的な傾向だ。

最後に、いくらスラムといえど、そこが人の集まりである限りやはり社会なのだ、そこには人のぬくもりがあるのだと書いていた。この本では子供の頃のエピソードを順番に書いている。全てはそれを伝えるためだろう。しかし冒頭のハギワラの話からあまりにも救いが無さ過ぎて、「事実、鬼ヶ島じゃないか…」という感も否定できないのだが。

それでもやはりスラムについて知りたいと思うなら、この本は絶対に必要な最後の一ピースであると思う。問題意識のある顔をしてその実、偏見まみれの、「スラム街のひどい生活」を怖いもの見たさに覗こうとした自分を、真の当事者目線に変えてくれる。


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