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『新月の子どもたち』第一章〜第三章_第1回生きるためのファンタジー読書会

人文系私設図書館ルチャリブロ司書、青木海青子さんの「生きるためのファンタジーの会」に触発され、児童文学やファンタジー小説を読む読書会を始めた。今回はその第一回、『新月の子どもたち』の三章までを扱った。

※一部ネタバレを含みます。まだ未読の方はご注意ください。



トロイガルドの囚人レインとシグ

舞台は、トロイガルドという世界と現実世界を章ごとに行き来する。

トロイガルドでは囚人たちは毎日点呼を取られる。「お前は誰だ」と聞かれ名前を答え、「そうだ、お前は〜〜だ。そして、お前は死ぬ」と言われ、それを復唱する。

トロイガルドの囚人たちは基本的に誰もこのことを不思議に思っていない。しかしシグだけは違う。2つ目の質問に「私はしなない」と答える。


「私はしぬ」「私はしなない」

現実世界とも繋がる中で、この言葉はなんなのだろう。私たちも、しぬ存在である。私たちとレイン、シグたちは、何が違って、何が違わないのだろう。

「いじわる?」

「(中略)あの子らは、質問しないことは、教えてくれない」
「そうみたいだね。いじわるだな」
ぼくは、いった。
「いじわる?」
シグの顔が、かたくなった。

p28

なんでも知っていそうな存在が、質問しないと何も教えてくれなかったら、どう思うだろうか。

この部分について、Cさんと私では見解が異なった。「質問しないと教えてくれないのは、そうだろう」「いや、レインは彼らが”何をレインに教えれば役に立つか”も知っているのに、教えないことを想定しているのかも」

けれど本当は、どちらの場合であっても、質問しなければならないと思う。人は言葉にしなければならないと思う。言葉がどれだけ曖昧で、不確かなものであっても、私たちは基本的に言葉でもって分かり合うしかないのだから。

街灯は、夕焼けの子どもだ。

塾を出たころには、日が暮れていた。遠くの空に夕日の気配だけが、残っている。夕焼けが、ばらばらに飛びちって、商店街の赤黄色の街灯に、うまれ変わったみたいに見えた。

p48

第一章から第三章までの中で、私にとって最も印象的だった場面。日が暮れて、太陽の色が淡く夕日色になって、その夕日色が、街に立つ街灯たちに灯を与えていく。

私たちは、目の前に見える現実を、かようにも捉えられる。私たちは、みな同じ現実を見ているつもりでも、実際はそうではない。

元気溢れるとき、世界は色づき華やいでみえる。失意の底に沈むとき、世界は彩度を失い、暗い側溝や部屋の隅の汚ればかりが目につく。そして、その境には、状態のグラデーションがある。

私たちはきっと、ひとりひとり違う世界を見ている。そして、私たちはきっと、世界の見え方をある程度以上、意識的に操作できると私は思う。

街灯は夕焼けの子ども。新しい世界の視方をまたひとつ知って、嬉しく感じた。

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