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『左右を哲学する』3〜4章_第4回哲学読書会

先月末、第4回目となる哲学読書会を行った。本は『左右を哲学する』3〜4章を扱った。

簡単な自己紹介の後、語りの中で以下のような話題が取り上げられた。

  • 左右軸をテーマとする不思議さ

  • 「左右”感覚”というものはない」1〜2章の主張の振り返り

  • 筆者がもっとも強調して伝えている「左右軸のみが持つ中心性」



左右軸をテーマとする不思議さ

写真を扱っているTさんから「左右の話をしているのに、前後軸ありきで論が進んでいくわけではないのが不思議だった」という意見が出た。

Mさんと私は、1、2章を読む中で深く言及されていく「左右感覚」の話に集中したため、そこまで前後軸で足を止めることがなかったが、言われてみれば「前があるから左右がある」という考えがもっともシンプルだ。対話の最初は、そもそも前後軸と上下軸が除外されて話が進むことについてしばし語らわれた。

ただ『左右を哲学する』の中では、「左右」というものに他にない特別性を認めているので、その話を深めるため、「左右感覚はないとは?」という話題に移った。

「左右”感覚”というものはない」1〜2章の主張の振り返り

ここは、全員が足踏みをした箇所だ。普段当たり前のように左右を使っている私たちにとって、「左右感覚なんてものはない」と言われてもいまいちピンとこない。順を追って見ていこう。

まず、著者の清水さんは、左右が逆に見えるメガネをかけているのと同じ状態の人(=左右反転人)を想定する。

私たちは通常、右手を上げようと思って手を動かすと右手が上がるが、左右反転人はそうではない。左右反転人(左右反転するメガネをかけている人)は、右手を上げようという意識で手を動かすと左手が上がる。

「ひどく暮らしにくそうだ」と感じるかもしれない。だが、左右反転人にとってその感覚がふつうである。もし生まれたときからそうであれば、その感覚に慣れ、生活に支障はないだろう。右側にあるものを取るときには「”左手を動かす”という感覚を使えばいいのだ」と理解していく。

ここまでで、私たちと左右反転人の違いは、自己内面にしかない。つまり、観測できない。外から見ている分には私たちも左右反転人も、普通に暮らす人に見えるだろう。ただし、決定的に違うことがある。それは左右感覚が逆転しているということだ。

このように、左右感覚は外部からの客観的な観測を持って”存在する”と太鼓判の押せるものではない。つまり、生まれながらに正確な左右感覚など持っていないし、そもそも明確な「左右感覚などない」というのが、おそらく清水さんの主張である。

筆者がもっとも強調して伝えている「左右軸のみが持つ中心性」

論が進み清水さんは、「左右」のみが、誰とも共有されない”自分だけが中心となる概念だ”と述べる。

上下も前後も、物的なもの(天地や顔の向きなど)によって容易に他者と共有される。その一方で左右のみが、物的なものでなく自己内面の感覚によって決定されるという。(「右手、左手という”物的なもの”によって決定できるのでは?」と思う方は、「「左右”感覚”というものはない」1〜2章の主張の振り返り」を再度参照されたい)

とはいえ、ここの理解については正直私も怪しい。論の進行として、それぞれの語の定義として、「そのように言えそうである」ということはわかるが、「本当にそうか?」という疑念が強く湧く。

次回で『左右を哲学する』は最後の読書会となる。通読した上で、またみんなで”左右”について語ってみたい。

『左右を哲学する』の次の課題本は『ウィトゲンシュタイン入門』予定

メモ:本文中で重要と考えられる語、テーマ

・左右軸と、上下軸、前後軸の違い
・左右反転人
・左右感覚
・左右軸による中心、中心性

参加者からの感想

先日は哲学読書会、ありがとうございました。すごーく頭の🤸になって、後でふわふわしていましたが、とても良かったです。哲学書を読むのはまるで外国語を読むようで、読み飛ばすとわからなくなるし、言葉の定義が緻密で、平易な言葉で書かれているのに、歯ごたえがありました。著者の清水さんの文体も独特なキャラクターや「思い」が表現されてる感じで良かった。「〜と積極的に認めたいのです」という表現など、味わい深く思いました。哲学は、自分のやっている写真史のジャンルに深く関わるのに、できていないので、良いチャンスをいただいてありがたいです。

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