威徳院 旧蔵とされる「魔像」について ②
前回は「魔像」が旧蔵されていたとされる威徳院が、どのような寺だったのかを確認した。元禄に再建され宝暦までのおよそ百年間、住職が四代続いたが、その後が続かず、近くの寺の住職が兼務するようになった小さな寺で、明治3年の「明細帳」によれば檀家はわずか4軒、翌 明治4年には廃寺になった寺である。「廃仏毀釈により破壊された寺」と聞くと妄想がふくらむかもしれないが、実際には廃仏毀釈がおこらなくても存続できたかは疑問で、異形の「魔像」群が伝承された寺にしては歴史も浅い。
今回は視点をかえて、いわきの民俗について少し学んだ経験がある筆者が、「魔像」の説明文に、もっとも違和感を感じた点をとりあげてみたい。湯本豪一記念日本妖怪博物館(三次もののけミュージアム)に所蔵されている「魔像」群についての説明文を改めて確認する。
「この妖怪像は福島県いわき市で何箇所かに分散されて伝えられていたものだが、言い伝えによると、いわき市泉町にあった玉光山威徳院にあったものといわれる。威徳院は廃仏毀釈で廃寺となり、この像も地元の人たちが受け継いでいたきたものと思われ、「魔像三十六体」と呼ばれていた。」 (『古今妖怪纍纍』湯本豪一 )
この「魔像」は威徳院にあったものとして、いわき市内で何箇所かに分散されて伝えられ「魔像三十六体」という呼び名まであったというのだ。 これが事実だとすると、大変驚くべきことで、湯本氏の手にわたる以前に、地元の民俗学者・郷土史家たちが誰も知らなかったということになる。不思議な話である。なぜならば、いわきは戦前から民俗学が盛んな土地で、しかも「オシンメイサマ」と呼ばれる木像の探求が熱心におこなわれていたからである。「魔像」のような異形の木像群が、威徳院にあった「魔像三十六体」として市内の数箇所に伝えられていたにもかかわらず、研究者は誰も気が付かなかったという話は全く信じられない。
「オシンメイサマ」といわきの民俗学
「遠野物語」や「大白神考」で採り上げられたことで知られるオシラサマは、福島県内にも分布しており、当地では「オシンメイサマ」と呼ばれている。戦前、著名な民俗学者たちがいわきの「オシンメイサマ」を探求していた様子を『いわき市史』から引用してみよう。「神明信仰については、柳田国男が早くから注目され、大正九年ころ、露国人ニコライ・ネフスキイが高木誠一を尋ね、その協力を得て調査したのが、いわきに於ける神明調査のはじめである。次いで磐城民俗研究会の手によって詳細なる調査報告がなされ、「磐城神明資料」『旅と伝説』十一・十一と題して公刊された。その後、岩崎敏夫先生が「磐城の神明」『国学院雑誌』四十七・十を発表…」
いわきでの「オシンメイサマ」の調査は大正時代から盛んだった。ニコライ・ネフスキイ、高木誠一、岩崎敏夫、山口弥一郎といった著名な研究者の名が挙げられるが、戦後も岩崎敏夫、和田文夫、吉田博令などが熱心に調査を続けていた。吉田博令が宮司を務めていた下神谷 愛宕花園神社には「神明箱」と呼ばれる箱が伝わる。かつて法印宅あるいは祠堂などで祀られていた「オシンメイサマ」が、明治維新後信仰心が薄れ、あるいは粗末にすることによる祟りを恐れて、委託するような形で各地からこの神社に集まってきたのだ。「オシンメイサマ」でさえ、粗末にすることによる祟りが恐れられ、神社に委託された例が少なくないにもかかわらず、妖怪そのものである「魔像」の祟りは恐れられなかったということだろうか。ちなみに威徳院があった旧泉藩領では、近世「惣右衛門たたり」と呼ばれる騒動が生じ、その祟りは戦後まで恐れられていた。また民俗学者たちは単に「オシンメイサマ」の分布を調査していただけではなく、民間信仰、民間の祈祷師の調査まで実施していたのだ。すべての「魔像」が、ある家にまとめて代々秘匿されていたというならまだ理解できるが「いわき市で何箇所かに分散されて伝えられていた」という説明にはやはり違和感を感じる。
調査をしていたのは民俗学者だけではない。旧泉藩領内で明治に廃寺となった寺院を悉皆調査した郷土史家、水澤松次は、威徳院の墓石の銘および所在の追跡調査、仏具等、遺物の有無まで調査し、その結果「正徳二壬辰…玉光山威徳院」の銘のある半鐘が地元に残され、「元文二丁巳…威徳院住法印英範」と刻字された銅鑼(鐃か?)が個人宅で保管されていることまでつきとめていた。(『泉藩領廃仏毀釈 消えた寺院考察』水澤1989)すでに確認したように、明治3年の時点では威徳院の檀家は4軒しかなかった。おそらく威徳院の旧檀家だった家まで、水澤は調査していたと考えられる。威徳院の本寺だった遍照院の調査もしている。しかし「魔像」は発見されなかった。
「オシンメイサマ」と「魔像」がならんでいる様子は何とも奇妙に思える。「魔像」は、本当に「東北の妖怪」だったのだろうか。