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威徳院 旧蔵とされる「魔像」について ①

 2017年に、湯本豪一氏『古今妖怪纍纍』で発表され話題になったという、いわゆる「魔像」について、筆者は最近までその存在を知らなかった。      先日、福島県立博物館の2021年度の催し物案内のパンフレットの写真(上掲)を見て不思議に思い調べたところ、湯本氏がこの像を著書で公開した後SNS等で話題になり、現在は広島県三次市にある 湯本豪一記念日本妖怪博物館(三次もののけミュージアム)に所蔵されていることを知った。「魔像」の説明文によれば、なんとこの像、元はいわき市の寺院に旧蔵されていたものだという。

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「この妖怪像は福島県いわき市で何箇所かに分散されて伝えられていたものだが、言い伝えによると、いわき市泉町にあった玉光山威徳院にあったものといわれる。威徳院は廃仏毀釈で廃寺となり、この像も地元の人たちが受け継いでいたきたものと思われ、「魔像三十六体」と呼ばれていた。この像が寺にあったときに、どのような信仰対象となっていたのかは不明だが、妖怪像という稀な資料で今後の研究が俟たれる」(『古今妖怪纍纍』湯本豪一 )

「魔像」の写真と説明文を見ているうちに頭がくらくらしてきた…。      しかも県立博物館の企画展で展示するという。

「魔像」それじたい、見た目でいろいろ腑に落ちない点があるが、何よりこの説明文は、いわきの歴史と民俗をかじった人間からすると、簡単に納得できる内容ではないのだ。以下、廃寺になった威徳院についての簡単な説明と、筆者が感じた「魔像」の疑問点をいくつか挙げてみたい。

廃寺になった玉光山 威徳院について確認できる資料としては、                            ・「泉藩諸宗本末寺号其外明細帳」明治3年 
・「磐城国菊多郡玉露村村誌」明治16年(いわゆる皇国地誌)                                ・地元郷土史家、水澤松次氏による著作
「玉露の歴史」1979「泉藩領廃仏毀釈 消えた寺院考察」1989 などがある。    

簡単にまとめると、                                旧泉藩では、水戸学を学び過激な思想に影響された青年藩士たちがいたこともあって、明治4年には藩領内で寺院の破壊がおこなわれた。明治3年の「明細帳」によると、当時藩領内にあった寺院は59箇寺、ただし、その内8箇寺は羽黒修験の触下(出張所に近い)で住職もいない。これらも当時は「天台宗羽黒派」として数えられたようだ。この8箇寺も含めて兼任の住職すらいない完全に無住の寺院は、当時領内に27箇寺もあった。ほぼ半分が完全に無住の寺だったことになる。他寺の住職が兼務する寺院15箇寺も合わせると7割超の寺院が無住だった。また、総じて檀家も少なく、檀家が50を超える寺院は4箇寺だけで、もともと経営のきびしい寺が多かったと思われる。翌 明治4年には上知令(寺社領の没収)も出されるので、過激な青年藩士なんかいなくても、半分以上の寺は自然に消滅していたかもしれない。

このように、泉藩領内の寺院のほとんどが、廃仏毀釈が実施される以前から経済的に厳しかった。問題の威徳院も同様で、檀家の数はたったの4軒、お寺の境内は5畝19歩(約50坪)。住職も宝暦9年(1759年)に亡くなった鏡覚さんが最後で、それ以後は湯長谷藩 長孫村の長宗寺(いわき市常磐長孫町、  隣藩だが2Kmくらいしか離れていない)の住職が兼任していたようだ。檀家が4軒では無理もない。もっとも兼任の住職すらいない檀家もさらに少ない寺が、当時の泉藩には何軒かあったので、まだましかもしれない。

この威徳院、宗派は真言宗で、本寺にあたる住吉村(現在のいわき市小名浜住吉) 遍照院に残された記録を調べた水澤氏によると、天正年間に開かれ、四代目の祐仙さん(慶長頃の人)まで続いたが、いったん途絶えたらしい。郡村誌にも記載があるが、元禄年間に寺が再建された後、禅隆ー城澄ー英範ー鏡覚と続いた後に無住になったものらしい。したがって、明治4年に破壊された威徳院は、実質的には元禄から宝暦までのおよそ百年、四代だけ住職が続いたがその後無住になった、あまり歴史のない寺ということになる。   

また禅隆ー城澄ー英範ー鏡覚という4人の名前からして、威徳院がどんな寺だったのか、だいたい想像できる。名前が一文字もかぶらない、ということは、師弟関係もなかったと思われる。つまり、寺には住職が一人いるだけで、その住職が亡くなったら、おそらくは本寺である遍照院から、前の住職とは何の関係もない新しい住職が派遣されてきた。しかし鏡覚さんが亡くなった後、住職のなりてが誰もいないので、近くにある長宗寺の住職が威徳院を兼務するようになった。そう考えるのが自然だろう。

檀家なし、歴史なし、住職もいない小さな寺。これが威徳院の実態だった。世にも珍奇な「魔像」が伝承されたと言われても、どうも腑に落ちない。しかも「魔像」は三十六体だけでなく、他に座像が百体あるという。にわかには信じがたい話だが、筆者としては、威徳院で旧蔵されていたという説明以上に、いわき市内で何箇所かに分散されて伝えられていたという話に違和感を感じる。その違和感がいくつもの疑問を生むのだが、威徳院の説明が長くなったようなので、疑問については改めて書いてみたい。

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