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『三重に偉大な議長の優雅な生活』第12話
4 もう一つの隠れ家にて
月が出てきた。
夜陰は心持ち薄まったものの、吹く風は依然冷気を帯びてひんやりしている。
「すっかり遅くなっちまった」
宮廷の裏手、間道を挟んだ目立たない一角に、誰も寄りつかない粗末な物置小屋がある。
物置といっても屋根と壁があるほかは大して使えそうな物もなく、元の持ち主も所有権を放棄しているようで、掃除もされず後は朽ちていくだけの憐れな風情だ。長居をしたくなる要素はどこにも見受けられない。これに比べれば隠れ家の家畜小屋が贅沢な一軒家に思える。しかし、人が近づかないのであれば、秘密の私部屋として充分利用価値はある。
服は戸棚に数着詰め込まれ、仮面を収納するのにお誂え向きの抽斗もある。俺はこの物置を、心楽しい変装の拠点として長らく愛用していた。公務時には議長、それ以外は天才楽師、場合によっては解放軍の首領と、三つの顔を器用に使い分けているわけだ。
おお、極秘の三重生活!
この国で特別尊ばれている三の数字が、ここでも顔を出す。そう、それら三つはいずれも俺の顔なのだ。公、私、そして闇の顔。どれもが正しい。凡て俺の真の姿だ。
始終埃臭く、夏期にはカビ臭さも加わるこの窮屈な一室で、俺は今まさに仮面公ヌリストラァドからライア議長に戻ろうとしていた。といっても、上衣と下穿きは議長のときのままなので、することといえば仮面を脱ぐだけだ。
それにしても、神秘的でかっこいいなんて子供じみた理由で、鉄製の仮面を着けるもんじゃないな。俺は時折去来する後悔の念にまたしても駆られた。夏は蒸すし汗臭いし、冬は凍るような冷たさで触るのもいやだし、一年中重たいし。結構な特注品で値段もそこそこするから、処分するのも気が進まない。第一代わりの仮面がない。容易に外れない安全性を考えると、これ以外の仮面は一歩も二歩も劣る。
首の留め金を外し、決して軽くはない鉄の仮面を持ち上げ頭から離した。思わず吐息が洩れる。広くなった視界に、窓向こうの月明かりが見えた。
その逆側には、月影に照らされた戸棚がある。壁際に竹箒も見える。それと、その竹箒に寄り添うようにしゃがみ込んでいる、人影も。
……人影?
「誰だ」
人だ。人がいる。
「誰だお前?」
人影の肩の辺りがビクンと震えた。
女だった。月影に朧に浮かぶその相貌に、見憶えはない。俺の知らない女子だ。それも相当に年の若い。
いつからそこにいたのか。俺は思いきって尋ねることにした。
「いつからそこにいた?」
「…………」
返事はない。怯えた眼でじっとこっちを見つめ返している。けれども俺が仮面を外す決定的瞬間を目撃したことは、ほぼ間違いない。
「お前、何者だ」
「…………」
やはり返事はなかった。ただ首を横に振るばかりだ。短めに刈られた黒髪が、形のいい頭に沿って月明かりに映えて見えた。
「…………」
だが、その若い女は青ざめた自分の唇と喉許に手をやると、それを左右に振って何かを伝えるような仕種をした。
ひょっとして、口が利けないのか?
「お前、喋れないのか」
コクコクと頷く。不安そうな表情が、おかげで多少は和らいだようだった。
どこから来たのかは知る由もないが、行く当てもなく夜の首都を彷徨った末、ここを一晩の宿にと選んだのだろう。戸に鍵はないから出入りは自由だ。
とはいうものの、普通から誰も寄りつかないこんな場所をネグラに決めた段階で、只者でないことは明白だ。それもあまり良くない意味での。
「身寄りがないのか」
頷く。
「で、住む家もないのか」
大きく頷く。
「それで寝る場所を探してたのか。お前、この辺の人間じゃないな。どこから来た?」
少女は哀しそうな顔をして首を振った。知らない? 言えない? どっちの意味だ?
「ん?」
俺は少女の首の辺りに妙なものを見つけ、そろそろと近づいた。警戒するように自分の腕を抱え、身を固める少女。そんな様子を俺は意に介さず、上体を屈めて彼女の首許を下から覗き込んだ。
健康的な褐色の肌が、喉許の一箇所だけ不自然に白い。真横に細く引かれたそれは、紛れもない刃物か何かによる傷痕だった。かなり昔の古傷らしいが、これのせいで声を失ったのは間違いなさそうだ。
俺にしては珍しい憐憫の情が、心の片隅に擡げた。よくよく見ると、顔だけじゃない。娘の着ている服にも全く見憶えがない。どこぞの民族衣装のようだ。俺の言葉が通じているのだから、外国人ではないだろう。
とすると、この服は一体?
「お前、所持金は、金はいくら持ってる?」
首を振る。無一文か、この娘。
「まあいいや」
口が利けないのなら、俺の正体を言いふらす虞もない。第一俺のことなど、ここで仮面を脱いだ以外には何も知らないはずだ。
「ここで寝泊まりはやめとけ。すぐ近くに宮廷があるから、役人に頼んで中に入れてもらえばいい。金のほうは、ま、俺が頼めば一晩ぐらいどうにかなるだろ」
だが、少女はいきなり俺の腕を掴むと、決して無益ではないはずのその申し出を頑なに拒んだ。
「お、おいおい」
訳が判らない。何を断る理由がある?
「宮廷の客室のほうが絶対寝心地いいぞ。俺が保証する。午睡にもってこいの寝台でな。こんな蒲団もない所じゃ、横になろうったって」
少女の瞳を見て、俺は言葉に詰まった。翻りそうにない決意を宿した、縋るような両眼。そこにうっすらと浮かぶ涙。
何かに怯えている。どうしても宮廷には行きたくないらしい。あるいは、役人に会いたくないとか?
「まさかお前、犯罪者じゃないよな」
それにも首を振る。さっきから首を横に振ってばかりだ。どうすれば頷かせることができるのか。
「ったくもう、しょうがねえなあ」
立ち上がって辺りを見回す。蒲団の類はどこにもない。仮にあったところでダニの巣窟だろうから、横になるには相当な勇気が要る。
「ここで待ってな。毛布か何か持ってきてやる」
さすがに俺の寝室に連れて帰るわけにはいかない。堅物のドルクが承知するとも思えないし、難物のチェリオーネに至ってはこの少女どころか俺まで追い出しかねない。
名も知らぬ娘のために、俺は宮廷までの帰路を更に一往復分余計に歩く羽目になった。しかもそのうちの一回は、俺が使うわけでもない寝具一式を背負ってだ。悪徳役人から金品を強奪した後で、寝具運びに奔走する評議会議長。
「何やってんだろ、俺……」
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