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『三重に偉大な議長の優雅な生活』第19話
3 少女の名前と青年への頼み事
「なんとまあ、可愛らしいお嬢さんじゃないか」
もじもじと服の裾を掴んでいるいたいけな少女をまじまじ見やり、ロッコムは感嘆の声を上げた。
「一体どこで出逢ったんだい、アリル」
「んー、まあそのあれだ、色々あってな」
物置小屋で奇妙な邂逅を果たした翌日、俺は人通りのない路地裏の木陰にロッコムを呼び出し、この謎に満ちた少女を紹介した。
「水臭いじゃないか、君も隅に置けないなあ。初めましてお嬢さん、僕はアリルの友人でロッコムと言います」
と青年の差し出した手を娘はそっと握り返したが、すぐに手を離して頼りなげな視線を俺に向けた。不審そうにロッコムもこっちを見る。
「よっぽど君に懐いているみたいだね」
「そんなんじゃねーよ。この娘は口が利けないんだ」
「そうなのか」喉の傷痕を見てロッコムは幾分声を沈ませたが、すぐ気を取り直して、「ところで、この娘の名前は?」
名前。そういや、まだ名前も訊いてなかったな。
彼女は息を吹き返したように顔を上げ、四角い物や、何かものを書くような手振りをした。
「紙と、筆?」
「なるほど。紙に書いて教えようってのか」
だが、あいにく手頃なものは身近になく、代用品も見当たらない。
「地面に書けないか?」
「ここは固すぎるぞ。枝か棒切れでも落ちてりゃいいんだが」
キョロキョロと辺りを見回す俺とロッコムを尻目に、小娘は何を思ったか俺から身を隠すように背後へ回り込んだ。程なくして、背中に何か押し当たる感触。
「うわっ」思わず上体をよじる。「なんだなんだ」
「どうしたんだい?」
「ああ、そうか。字を書いてるのか。あーびっくりした」
そうして少女は俺の背中に直接指を当て、自身の名を綴り始めた。くすぐったいのを怺え、指の動きに意識を集中する。
「サ、ア? んー最後が判らん。もう一回書いてくれ」
サ、シャ。サーシャ、か。
「お前サーシャっていうのか」
娘は俺の背中に手を触れたまま、今まで見せたことのない明るい笑顔を浮かべた。
そんなサーシャにちょっとの間離れるよう言い、今度は寂しげに横手の坂を登っていく小さな後ろ姿を見届けてから、俺は引き合わせた目的を果たすべく、名前の判明した彼女の世話をロッコムに頼んだのだが。
「じょ、冗談じゃないよ」それまで見せたことのない怒りの表情をその穏やかな顔に宿し、青年は声を荒げた。「君が世話してあげるべきだろう。なんだって僕がそんな」
「いや、俺じゃどうしても無理なんだ」
議長の立場であの宮廷には絶対連れて行けないし、役人に引き渡すのも本人が承諾しない。かといって、あの衛生面にも問題ある物置で引き続き生活させるのは、あまりに酷だ。
「僕だって無理だよ。もう外を歩きながらでも参考書を読まなきゃいけない時期なんだから。残念だけど、ほかを当たってもらうしかない」
「じゃあこうしよう。西の街区の、青果屋のおばさんはお前も知ってるだろ」
「うん」
俺は次のように提案した。
お店の仕事を手伝う条件で、サーシャをおばさんの家に住まわせてもらう。俺の口利きだけじゃ心許ないから、ロッコムも同席してほしいと。
「判ったよ」
諦めたように諸手を挙げ、青年は了承した。
「それなら僕も文句はない。でも、彼女は一体何者なんだい? どうして身寄りもないのにこんな所で」
律儀にもここから一定の距離を置いて、高々と枝を伸ばす巨大な樹木の幹を撫でているサーシャ。そのほっそりした姿を手で示し、俺は徐に口を開いた。
「あの服装に、見憶えないか?」
青年は燃えるように赤い頭を左右に振って、
「ないね。襟足の処理も縁飾りも共和国のものと違う。よその国の服だと思うけど、そんなに知りたいなら本人に訊けばいいじゃないか」
「いや、これはあくまで推測なんだが、あの娘……」
俺が続きを言いかけたところで、青年の眉がぴくりと蠢いた。やっと今一つの可能性に思い至ってくれたらしい。
「そういうことかい」
「確証はないけどな。ときにロッコム」
「なんだい」
少女を見るロッコムの眼が、僅かに翳りを帯びていた。
「図書館で例の本は調べたのか?」
ロッコムは指先だけで否定の意を示した。
「何部か仕入れたらしいけど、全部貸し出し中でね」
「まあ急を要するわけでもないしな。案外、そこいらの本屋にあるかもしれん」
「うちの近所でかい? あったとしても僕が買えるような値段じゃないし、あそこは立ち読み厳禁だからね。店長の親父さん、正直ちょっぴり苦手なんだよ」
「そうか? 気さくなおっさんって感じだが」
「気さくなのはいいけど、結構がさつなんだ。本の取り扱いとか、接客態度がね」
「ふーん、お前が神経質なだけじゃないか?」
「うーん、そうかもしれないけど」
客として接したことがないから俺にはよく判らないが、そういう見方もあるのか。
「とにかくだ、サーシャの件を頼む。お前の人当たりの良さなら、誰にお願いしても断られないだろ」
「そんなことだろうと思ったよ」ロッコムはいやにさっぱりした顔で、「了解したよ。取り敢えず、青果屋さんにかけ合うのが先決かな」
「あのおばさんかあ」
「苦手かい?」
「ちょっとな」
「君が苦手かどうかはこの際関係ないよ」
「ああ、全くお前が正しい。一緒に頭を下げてくれるか。お前がいれば三倍頼りになるぜ」
「よせよ気持ち悪い。三倍じゃ利かない気持ち悪さだよ!」
青年はこれ以上ないくらい眉根を寄せた。
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