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『三重に偉大な議長の優雅な生活』第6話

2 安息日(承前)


 春先の海岸は無人で、ただただ潮騒が砂浜を舐めるようにざわざわ這い回るばかり。
 膝丈ほどの平たい岩石に腰かけると、潮気を含んだ微風が耳許を擽った。南中に達した陽光の眩しさに眼を細めつつ、ももに竪琴を乗せる。
 本来、潮風は鋼鉄の弦を錆びつかせ、海辺での演奏に鉄製の竪琴は適さない。が、どこまでも地平の見渡せそうな解放感の中、広漠たる大海を眺めて甘美な調べを奏でるのは、情趣に富んでいてそれは心地好いものだ。
 手慣れた所作で弦を爪弾く。ポロン、ポロンと野外特有の残響のない、乾いた琴の音色が風音に紛れて聞こえた。
 自然の遠大さと琴音の近さ。
 宮廷の喧騒が嘘のような、快適な空間だ。あそこじゃおちおち楽器の練習もできやしない。それに政治の世界は常に民衆の敵意に晒され、世評との戦いが長年に亘り繰り広げられている。
 俺の場合は更に不信任決議との戦いもある。評議会の支持率だって決して無視できない。軋轢あつれきは次々と湧いて出てくる。心労だって溜まる一方だ。
 そういった理由から、どうしても息抜きや気晴らしが必要になる。宮廷内では楽器演奏が困難なのだ。どういうわけか、楽器に触ろうとするとすぐに周りに止められちまうんだよな。ったく、なんでだよ。

「んー、いい風だ」

 個人的には、この散策に〈一般庶民の視点による民間の視察〉的意味合いを込めていたが、実際にはさほど機能していなかった。もっぱら心的緊張の緩和を目的としたものになりつつある。早い話が憂さ晴らしだ。とはいえ、思うさま楽器が弾けるだけでもありがたいことだ。
 そう、ここでの俺は天才楽師にして吟遊詩人のアリルであって、それ以外の何者でもない。宮廷に溢れ返る処理待ちの書類のことはきれいさっぱり忘れて、貴重な休息をのんびりと過ごすんだ。
 言うまでもないが、アリルの名はライアの単純な並べ替えに過ぎず、そこから異国的情緒を嗅ぎ取るのは聞き手側の自由なのだけれど。
 当然、街の人々は俺の正体など知らない。誰一人、議長の顔を見たことがないからだ。こうでもしなけりゃ、普段宮廷の外に出ることもないし。
 いや、それだけじゃない。宮廷の連中にも、楽師としての俺のことは全く報せていない。秘書たちはもちろんのこと、かつて苦楽を共にした文部大臣のピートや、労働大臣のフィオにもだ。これは信用の問題じゃない。大切なのは〈誰にも知られていない〉ことなんだ。秘密にしておけば何かと動きやすいし、誰も知らない秘密を自分だけが知っている優越感にも浸れる。共有者は皆無。俺しか知らない、俺だけのもう一つの顔。
 遥か頭上で海鳥が啼いている。
 北の凍土から、俺の演奏をわざわざ聴きにきたのか? まあいい。金は要らないからゆっくり聴いていけよ。次の曲は変拍子の妙が効いた現代音楽の珍品〈錯乱する前世紀の醜女しこめ〉だ。
 ところが困ったことに、指は弦を弾いていても、肝腎の思考はなかなか議長としての立場を離れられない。不信任決議との戦い、か。我ながらご苦労なこった。律儀にも辞職時のことまで考えてんだからな。職業病ってやつか。どうせなら次に創るべき曲想に悩みたいところだよ。
 三曲ほど立て続けに弾き終え、一息吐いて竪琴を下に置いたところで、岩だらけの浜辺の陰から人影が一つ現れた。

「しばらくだね、アリル」
「よお、ロッコム。元気か?」
「まあね」

 ゆっくりした足取りで赤毛の青年が近づいてくる。

「どうしたんだ、こんな所で。泳ぎにでも来たのか」
「まだ三の月じゃないか、凍え死んでしまうよ。気散きさんじの外出さ」
「そうか、お前司法官の勉強をしてるんだっけな」

 少々気弱で優しい顔立ちをしているが、太い眉毛は確乎かっこたる信念の持ち主だと雄弁に物語っていた。顔はおよそ似てないが、眉毛だけは兄貴そっくりだな。
 あれ?
 そういやロクサムの奴、今日ちゃんと会議に出席してたか? あいつ影が薄すぎて、いるのかいないのか判らないときがあるんだ。まあ頭数は揃ってたし、さすがに代理の議員がいればその場で気づくだろう。間違いなく円卓の座に着いていたはずだ。またあの朱で塗ったような濃い口髭を丁寧に撫でながら、神妙に黙座していたに違いない。
 にしてもだぞ。ロクサムの席、俺の二つ隣だろ? もう少し存在感を出してもよさそうなもんだが。
 岩の片隅に腰を下ろし、ロッコムは眼を細めて海を見つめた。眠そうにも見えるが、実際勉強疲れで眠いのだろう。

「毎日分厚い参考書との格闘だからね。正直君が羨ましいときもあるよ」
「俺が? まあ勉強とは無縁の生活だけどな」

 懐からリンゴを取り出し、投げ渡す。

「というより、君の泰然とした自由人ぶりがね」
「あっはは、そりゃ光栄だ」

 会話が途切れ、リンゴをかじる軽快な音が波音の合間に漂う。実生活では政務に縛られ、全く自由人とはかけ離れている。気ままな風来楽師は見せかけに過ぎない。

「司法試験はいつだ?」
「筆記が再来月だよ。もう残り二ヶ月を切った」
「今が正念場ってわけか」
「どこにいても試験のことで頭がパンパンなんだ。参ったよ」

 俺だって似たようなもんだ。ちょっと気を緩めると、政界や世論のことばかり思い浮かんでキリがない。だからそんなに気に病むなよ。

「でもさ、再来月には勉強ともおさらばできるんだろ? 醒めない夢はないし、やまない雨もない」
「受かればの話だよ。でなきゃ、悪夢と冷たい氷雨がまだまだ続くことになるから」
「悲観しすぎだっつーの。お前らしいけど」

 ロッコムの父は、今から七年ほど前に反逆罪のかどで幽閉され、そこで獄死している。一説によると、拷問による溺死だったとか。
 爾来、長男ロクサムは革命軍に身を投じ前の武力政変に深く関与し、のちに樹立した新政府では法務ほうむ大臣として評議会の一員に名を連ねている。
 四の三倍ほども年の離れた実弟ロッコムは、そんな兄に憧れ、険しい司法の道を歩もうとしていたのだ。

「司法周りは慢性的な人手不足だろ。割と簡単に受かるんじゃねーの?」
「甘いよ。数ある資格試験の中でも、司法試験は最難関の一つなんだ。一次の筆記試験の結果が悪ければ、そこで足切り。面接や実務試験には挑戦すらできない。たとえ採用人数に満たなくてもね」
「狭き門ってわけだ」

 リンゴの酸味と甘味を同時に味わいつつ、俺は両手で門を開く仕種をした。あ、こりゃ引き戸か。

「僕には足場のない断崖絶壁に見えるね。門というより」

 なるほど。まあ行く道の険しさは当人にしか判るまい。他人が口を挟むことでもないわな。

「この国にも、陪審員制度が適用されればいいんだがなあ」本音を洩らす。ロッコムなら理解してくれそうだ。「そうすりゃお前も積極的に裁判に関われるし、お前の兄貴や俺も、じゃない、議長も、ちったあ肩の荷が下りるだろうに」

 ロッコムは真剣な面持ちのまま、

「確かに、民意の反映はより直接的になるだろうね。けど、そう簡単な話でもないと思うよ」
「そういうもんかね」
「僕はただ、過去の過ちを繰り返してほしくないだけさ」

 過去の過ち。

「〈鉄と炎と炎の大帝国〉のことか」

 返事代わりに小さく頷き、ロッコムは遥かなる水平線に眼をくれていたが、やがて何かに思い当たったらしく、顔をほころばせた。

「アリル、もし良ければ、僕の勉強に少し付き合ってくれないかい?」



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