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『三重に偉大な議長の優雅な生活』第18話
2 少女との他愛なき日常(承前)
袋を広げて中身を取り出す。
棹の長い、緩やかな方形の胴。馬の毛を張った長い弓。それから楽譜を載せた帳面。
胡弓の演奏用具一式だ。
「胡弓だ。見たことあるか?」
首を振るサーシャ。当然触ったこともないだろう。
「この弓で、胴んとこの弦を擦って音を出すんだ。ま、こんな具合にな」
ここは教師としてお手本を見せてやるか。
胴を股の上に乗せ、慣れた手つきで弓を滑らせる。聞こえてくる見事な音色にサーシャは思わず耳を押さえたが、こっちは構わず演奏を続けた。聞き慣れない音に最初は誰しも違和感を抱くものだ。
即興演奏をやめて、弓と胴を手渡す。
「まず調弦のやり方からだな。この糸倉の糸巻を回して」
サーシャは音感も確かだから、調律も楽にできる。
「じゃあ、なんでもいいから適当に弾いてみ」
馬毛の弓を乗せ、怖ず怖ずと柄を押し出す。思ったより澄んだ音が鳴った。
「ほお」
「…………」
「そうじゃない。違う弦を弾くときは、弓じゃなくて本体を動かすんだ」
「…………」
五分ほど自由に弾かせていたら、早くも節らしいものを奏で始めた。
おいおい、こいつコツを掴む時間がどんどん短くなってないか? もう音程を憶えたのか。お前の潜在能力は底なしかよ。
「これが胡弓向けの曲の譜面。ちょいと記譜が違うが、まあ見りゃ大体判るよな」
俺が教えることはなさそうだ。帳面を開いて重石を乗せてやる。
背を曲げ、譜面にじっと見入るサーシャ。
「最初の竪琴がおよそ十五日だろ。で、今日が四の月下旬、氷の曜日だから、横笛は六日弱か」
俺の言葉にフンフンと頷き返す。この素直さが上達の秘訣なのかもしれないな。
「胡弓は何日で習得できるかな?」
小娘は自信なげに小首を傾げるばかりだ。
「ま、焦ることはないさ。ゆっくり着実にな。って言っても、お前のことだからあっという間に憶えちまうだろ。横笛の記録を更新できるか楽しみにしてるぞ」
確かにサーシャに演奏を教えるのは楽しかった。
おかげで自分で弾く機会はめっきり減ったが、真綿が水を吸うように技能を吸収していくのを見るのは、傍目にも心地好いものだ。俺と違って、既存の音楽の殻を打ち破るような勢いや独創性はないから面白みには欠けるが、模倣から入るのも芸術の一つの在り方ではあるし、これはこれで大いに結構なことじゃないか。
元々は俺の演奏を聴かせたくて連れてきたのだが、そういったわけで今ではすっかりサーシャのための個人授業と化していた。無料ってのが俺の底なしの寛大さを示している。ここはいくら強調しても足りないくらいだ。
「よし、俺も久しぶりに吹いてみるか」
さっきまでサーシャが使っていた笛を取り上げ、布で歌口をゴシゴシと拭う。中の唾は抜いてあるみたいだな。それを見たサーシャがあわわと慌てふためく。
な、なんだこいつ?
気にも留めず、横笛を水平に持ち替えたところで、ふと小高い坂の上に動く影を認めた。
あの赤い頭髪は、つい数刻前に会ったばかりのロッコムじゃないか。何やら本を読みながら、海岸には眼もくれずとぼとぼ歩いている。てっきり自分の家で勉強するのかと思っていたが、どうやら違ったらしい。
そういえば、さっき別れ際に身体を動かしながらのほうが頭に入りやすいとか言っていたな。それを実践しているのか。有言実行の精神は称えてもいいが、眼の前の路面すら見ずに出歩くのは少々危険じゃなかろうか。全意識が掌中の本に向かっているようで、あれじゃあ引ったくりに遭ったらひとたまりもないぞ。
「おーい、ロッコム!」
大声で呼び立てる。向こうも気づいて停止し、空いているほうの手を上げたが、
「こっち来いよ。今から二重奏聴かせてやるから」
という俺の言葉にはっと表情を変え、挨拶もそこそこに立ち去っていく。及び腰というか逃げ腰だ。
「なんだあいつ。俺たちの邪魔しちゃ悪いとでも思ってんのかな、なあサーシャ?」
当たり前だが返事はない。胡弓を胸に抱えて何故か俯いたきりだ。
「全然そんなことないのにな。まあいいか」
気を取り直して横笛を吹き始める。
戸惑い気味に眼をしばたたかせていたサーシャも、じきに演奏に加わった。即興の腕はまだまだだが、それでも俺についてこようとする度胸は大したもんだ。末恐ろしいわ。
坂の向こうに赤毛の青年の姿はなく、後ははしゃぎ回る幼児たちや小型犬を連れた老夫婦が時たま通りかかるだけ。寄せ返す波も穏やかで、長閑な海岸に絡まり響く二つの音色。
懸命に弓を操るサーシャをぼんやりと見下ろしながら、俺は十日の三倍も前の、青年に相談を持ちかけた際のことに思いを馳せていた。
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