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『三重に偉大な議長の優雅な生活』第16話
4 白昼の鉄仮面
上下共に衣服を替えた上で鉄仮面を着用し、再度宮廷内へ。
あの少女は既に青果屋のおばさんに預けてあるので、物置は再び生き物の気配を失い、今は無人だ。幾許かのポォも渡してあるしさほど不便はないと思うが、それでもこっちでどうにかできる分は済ませておきたい。服の件とか。
今の時間帯は裏門の警備が手薄で、ここの脇道は役人たちも通らない。伊達に五年も宮廷内で過ごしているわけじゃない。内部事情には精通している。相変わらず視界は不自由だが、もう後には退けない。
完全に不審者の立ち姿で、人目を避けこっそり上の階へ。
目指すは第一秘書チェリオーネの私室。
この宮廷は議員だけでなく、下級官吏や秘書のための住居もあてがわれている。部屋数には事欠かないので宿舎は必要ないのだ。
目的の部屋の一つ手前にある空き部屋に、そっと入り込む。
私室の扉は調べるまでもなく鍵がかかっている。露台伝いに窓から侵入するのが最上の選択。
窓の鍵は、よし、かかってない。ここまでは完璧。
第一秘書の私室に立ち入るのはこれが初めてだった。
居間のような拓けた空間だが、あまり生活感はない。調度も最低限の物しか揃えていないようだ。ただ、色取り取りの花を挿した花瓶の数は、両手で数え切れないほどあり、仮面の奥にまで花々の香りが漂ってきた。
衣類があるのは隣らしいな。
上品な造りの戸の前に立つ。
と、こっちで開けようとした扉が独りでに滑り、その先から部屋の主が姿を見せた。
施錠していることもあり気が緩んだのだろう。胸と下腹部を隠しただけの、あられもない下着姿の第一秘書は、俺を見て、というより鉄仮面を被った不審人物を見て、途端に表情を歪ませた。
「キャーーーッ!」
絹を裂く、もとい耳を劈く悲鳴に、冷や汗がどっと吹き出た。
まずい、こうしちゃいられない。
俺は縺れる脚を懸命に動かして窓際へ走った。
チラリと視界の隅に映った彼女は、白の下着を隠すように手で押さえ、恐怖のあまりその場にへたりこんでいる。追いかける様子がないだけでも幸いだった。
けれども服を持ち出す計画は大失敗だ。てっきりこの時間は留守と思っていたが、早めに戻っていたとは。大誤算だった。
大変なのは、むしろここからなんだよ。
「曲者だ、出合え!」
そーら、早くもおいでなすった。
廊下に出ると、一緒に飯を喰ったこともある護衛の兵士が、必死の形相でそう叫んでいた。
俺は反対側に走り出した。
「くそっ、逃がすか」
「待て」
建物の外に逃げおおせる可能性はまずない。
数名の護衛に追われるがまま階下に降り、更に地階へ。
無我夢中で駆け出すうち、なんと独居房の立ち並ぶ区域へ迷い込んでいた。重犯罪者を収容する、いわゆる牢獄というやつだ。
暖色系を基調とした明るい上階とは打って変わって、寒々しい色合いを見せる手狭な空間が縦に長々と延びている。堅牢な造りの床や壁は靴音を不規則に反響させ、大勢の行軍のように聞こえて恐怖を倍増させた。人間的な感情を拒絶する独房のいかつい鉄扉は、俺のその後を暗示するかのようだ。
なんてことを考えている場合じゃなかった。事態は緊急を要する。早いとこずらかろう。
独房横の個室に飛び込み、取り敢えず仮面と上衣を脱ぎ捨てる。
容易に見つからぬよう上衣を被せた仮面を高い棚の上に隠し、急いで部屋を出る。
今度はさっきの反対方向へ走り出すと、すぐさま追手の一団に出くわした。
「おお、お前たちも来たか」
「あ、議長」
機先を制して声をかけると、連中は畏まって直立不動の姿勢になった。
「こっちにはいなかったぞ」
「あ、議長も捜してらしたんですか?」
「まあな。走りすぎて、もうバテバテだが」
そう言って汗を拭い、荒い息を落ち着ける。
演技じゃない。本気で汗だくだった。見つかった際の冷や汗は、今やすっかり運動後の汗に置き替わっていた。
「どうかご無理をなさらず。後は我々に任せてゆっくり休んでください」
「ああ、そうだな。その言葉に、甘えさせてもらうよ」
「すごい汗ですね。涼しい場所にお連れしましょうか?」
「いや、俺はいいから、早く侵入者を追え」
「判りました。おい、行くぞ!」
それにしても危なかった。走り去る追手らの後ろ姿を見ながら、俺はつくづく思った。
未曾有の危機だった。よく乗り切ったよ。さすが俺。見事な機転じゃないか。
仮面と上着は置きっ放しだが、ほとぼりが冷めたら回収すればいい。先に見つけられたらそれまでだが、俺の所持品とは誰も思うまい。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
この逃避行の印象が鮮烈すぎて、その後食堂で遅めの昼食を摂っていた際、ジールセンに同行するノヴェイヨンを見たことも大して心には残らなかった。
参謀たるノヴェイヨンは声明文を秘密裡に置き残す任務を受け持っているから、その関係で外務大臣とも縁故があるのだろう。顔見知りなら、廷内を出入りしても怪しまれずに済むしな。むろん素性は隠しているはずだが。
ノヴェイヨンは仮面公の素顔を知らないため、ここで鶏の蒸し煮を頬張っている男が、自分の主であることに気づかないでいる。さっき護衛に追われていたところを目撃されていたら、参謀は俺をどう思ったろうか。
議長であることに気づかなかった兵士と、首領であることに気づかない参謀。どちらも同じこの俺を見ているのだけれど。
鶏肉の美味を存分に噛み締めながら、俺は少しだけ不思議な気持ちになった。
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