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『三重に偉大な議長の優雅な生活』第17話
第5章 不世出の天才楽師と少女と姫君の思わぬ顛末
1 少女との他愛なき日常
「時間だ。そろそろ戻らなきゃ」
「どこぞの令嬢と逢引きか?」
「何言ってんだい」青年はその赤い毛髪を掻き分けるように手を後頭部に当て、「勉強に決まってるだろう。そんな暇あるもんか。君と一緒にしないでほしいな」
「なんだそりゃ」
「じゃあね」
「おう、追加情報あったらまた教えてくれ」
「うん」
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ロッコムと別れたのち、潮の香に誘われるように颯爽と脚を進めた。
どこまでも青い空を見上げると、空の雲が先の月より幾分高くなった気がする。名も知らぬ歴史学者が書き残し、勤勉な友人によってもたらされた〈島狩り〉に関する意外な推論に、稀代の天才楽師つまりこの俺は改めて眼が醒める思いだった。
「アリル、なんだその袋は」
道すがら行き会った書肆の主人にいきなり訊かれた。
「胡弓だよ」
正直に答えたが、主人はというと質問する前となんら変わらぬ怪訝な表情。
「胡弓? 弓の一種か」
「楽器だよ」
「また新しい楽器に手を出したか」主人は呆れたように口をへの字に曲げ、「働いてもいないのに、よくもまあ次から次へ楽器が買えるもんだな。安くないだろうに」
「さあな、値段は知らん」
「借り物か? 誰だか知らんが気前のいいことだ。大事に扱うんだぞ。変な音ばっかり出してると、元の持ち主に申し訳が立たんだろう」
なんだよ変な音ばっかりって。
「悪いが、俺ちょっと急いでんだ」
「どうせ待ち合わせだろう、サーシャちゃんと」
なんでバレてんだ。ていうかどうして本屋の親父がサーシャのことを知ってやがる。
「この界隈じゃ皆知ってるさ。流れ雲の素人楽師に可愛い彼女ができたってな」
「彼女じゃねえよ」
それに素人楽師という呼び名も気に喰わない。こちとら学生の時分から楽器を使いこなしてんだ。
「こっちとしちゃあ、お前さんが大人しくしてりゃ仕事にも身が入るってなもんだ。前みたいに所構わず楽器弾かれちゃ、商売上がったりだからな。その調子でよろしく頼むわ」
品のない笑いを浮かべる主人に回し蹴りをくれ、そのまま西へ。
「いってえな、コノヤロー」
購買課に通達だ。この本屋から資料を買い入れるのは、当分控えさせよう。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
海岸に到着すると、平らな岩に腰かけている頼りなげな後ろ姿が見えた。
「おーい、サーシャ」
大声で叫び手を振る。はっと振り向き立ち上がった少女も手を振り返す。
サーシャ。
それが物置で遭遇した、例の少女の名前だった。話し言葉で伝えられない代わりに、字に書いて教えてもらったのだ。
「その服、自分で買ったのか」
頬を紅に染めて頷くサーシャ。白を基調とした春物の一続きの服が、小麦色の肌に照り輝かんばかりだ。
「やっぱり自分で選んだほうが似合ってるな。俺の感覚はどうも当てにならん」
言われた相手はブルンブルン首を振ってきたが、それでも嬉しそうにはにかんでいる。
か細い手に握られているのは、何日か前に渡した銀の横笛だ。さっきまで独りで練習していたのだろう。傍らに重石を乗せた譜面が見えた。
「〈海にかかる月の玉〉? もう最後の曲に取りかかってるのか。全曲制覇だなこれで」
照れ臭そうに頷く。恐ろしく飲み込みが早い。
俺は石に座って肩に提げた袋を置いた。
「んじゃ、一曲吹いてくれよ」
ニコッと微笑むと、サーシャは唇を歌口に当て、静かに息を吹き始めた。
〈神に愛された笛吹き〉ファルシパールによる横笛の定番曲、〈春と秋の大崩壊〉だ。
滑り出しから、鳥の囀りにも似た美しい旋律が辺りを包み込んだ。漣を縫って揺蕩う繊細な調べは、以前聞いた同じ曲よりも一層表現力を増している。
彼女の上達ぶりには眼を瞠るものがあった。練習熱心な点もさることながら、飲み込みの早さ、特に譜面を憶える早さはまさしく天才的だった。そんなサーシャが、今まで全く楽器に触れたことがなかったのが一番の驚きなのだが。
我が破格の才能とはまた異なる、模倣の才とでもいうべきものにこの娘は目覚めたのだろう。それもこれも全部、教師たる俺のおかげなのは言うまでもない。
最後の小節を奏し終えると、曲に合わせ上体を揺すっていたサーシャは閉じていた両瞼をゆっくり開き、全身の動きを静止した。それでも少し伏し目がちなのは、演奏を聴かれた羞恥の思いからだろうか。
俺はウンウンと頷いて空いている石の座を平手で叩いた。ここに座れという合図だ。
サーシャを座らせ、俺はコホンと空咳を一つ。
「横笛も習得したな。次はこれだ」
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