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『三重に偉大な議長の優雅な生活』第35話

6 少女の正体


「また会ったのう」

 その両眼は鎖されたままだが、いかにも懐かしげに顔を綻ばせる。好々爺たる相貌に、大賢人の威厳はおよそ感じられない。権力を笠に着るどこぞのジジイとはえらい違いだった。

「ああ、まさか、前に顔を合わせてたなんてな」
「フォッフォッ、人の世はあまねくそういうものだ。時に議長、儂は音楽祭の客として呼ばれたはずなのだが、次の演奏はいつ始まるのだ?」
「その件だが、あんたに頼みがある」
「頼みとな? そりゃ困るのう」じいさんは真っ白な髭に手をやり、「何故に儂が流浪の民なのか判るか? 儂は誰にも頼み事をされたくないから、こうして一箇所に住まわず旅して回っておるのだ。聞いたことがあるかの? 〈世界三大放浪者〉というのを。儂はそのうちの一人でな」
「はあ」

 そんなの聞いたことないが。放浪者なら、それこそ世界中に遍くいるだろう。

「残りの二人が気にならんかの?」
「はあ、まあ別に」
「詰まらん男だの」じいさんは不躾ぶしつけな態度になって、「それはさておき、儂が来たのはあくまで快い音楽を聴くためである。議長や、どんな頼み事か知らぬが、そういうことはほかを当たってくれんかの」

 議長に対してもこの態度。さすが世紀の大賢人と言うべきか。だが俺は公安相ほど往生際がよくないんだ。ここで断られては、粘りに粘った今までの苦労が水の泡になっちまう。

「じいさん、あんた音楽が聴きたいんだろ」俺は喰い下がった。「なら、望み通り飛びっきりのを聴かせてやるよ。けどその前に、彼女の傷を治してほしいんだ」
「む、彼女とな」

 俺は所在なげに立ち尽くすサーシャを手で示した。視覚を持たないはずの大賢人は、確かに手の方向に顔を向け、一瞬の沈黙ののち、ほほうと感嘆の声を上げた。

「これは驚いた。こんな所に〈島の民・・・〉がおるとはの」

 またしても周囲の者たちが騒ぎ立つ。

「し、島?」
「島の民! あの娘っ子が?」
「ひ、〈羊と真珠の島〉の、住人か」

 やはりそうだったか。
 見憶えのない服に褐色の肌。俺とロッコムの予想通り、サーシャは西の海を越えやって来た、〈羊と真珠の島〉の民だったのだ。
 だがしかし、それだけじゃない。俺の推測が更に正しければ。

「しかもこの娘、喉に傷を負っておるのう。〈唄狩り・・・〉の生き残りかの」
「う、唄狩り?」

 〈唄狩り〉。
 やはりな。
 注意深く周囲を見やる。さっきまでの過剰な反応に比べると、この言葉に反応した者は極めて少数。数名の神官たちと、後はエトリアくらいか。俺もロッコムからの情報がなければ、この単語を前もって知ることはなかったろう。

「抹殺された歴史だ」大賢人はぽつりぽつりと語り始めた。「〈島狩り〉とはつまり〈唄狩り〉、唄を狩ることだったのだ。〈唄狩り〉と呼んだほうが、行為の真意を正しく伝えていよう」
「唄を狩るとは、一体?」

 誰かが問いかける。大賢人はうむとがえんじて、

「古来より、〈羊と真珠の島〉には歌声の力で人々の心を魅了し、和らげ、あるいは奮い立てるという神秘的な存在、〈悠久と水晶の歌い手〉が少なからず存在していたのだ。その能力と技巧は代々受け継がれ、永きに亘り島の民の拠り所となっていた。ところが、僭主たる護民卿はそれを快く思わなかった。彼らが〈人心を惑わす邪悪な輩〉であり、〈いずれ島を征服し、この大陸に攻め込む可能性がある〉と言を弄し、多数の武装兵を送り込むと、歌い手と思しき島民を手当たり次第に殺していったのだ」

 ロッコムが調べた書物に記載されていた、歴史学者の推論とも合致する。その歴史学者は疑問符付きではあるものの、次のように結論を述べていた。

〈大量虐殺の主目的は、高度な歌い手らの抹殺だったのではないか?〉

〈悠久と水晶の歌い手〉たちの殲滅。それが〈島狩り〉の実態だった。
 俺と出会った最初の日、サーシャが役人の許へ赴くのを頑強に拒否したのも、その帝国時代の兵隊に対する恐怖心が故のことだろう。帝国が共和国に変わっても、ひとたびサーシャに植えつけられた疑念は、簡単には晴れなかったのだ。

「娘よ。お主のその傷、親御さんがつけたのではないかの」

 サーシャの眼からは、大粒の涙がポロポロと零れていた。

「歌い手たるお主の歌声を封じるため、声帯だけを傷つけて、敵兵から逃がそうとしたのではないかの。両親は健在か?」

 下を向いたまま、サーシャは大きく頭を振った。

「そうか。哀しいことを思い出させてしまったのう。すまんの」

 神官の一団から微かな啜り泣きが聞こえた。姫君だろうか。

「あい判った。議長や」
「引き受けてくれるかい?」
「むろんだ。そして儂にしかできぬことでもある。歌い手の娘よ。お主のその喉、治してやろう」

 そう言って、大賢人は皮膚の弛んだ右腕を持ち上げた。両手を顔に当て、声もなくしゃくり上げるサーシャの腕の間に手を伸ばし、薄布に覆われた喉許にそっと指先を触れる。
 大仰な身振りも、長たらしい呪文の詠唱もなく、それは一瞬で終わった。
 浅葱色の布がはらりと落ちる。
 ……消えていた。
 少女の、喉の傷痕は。
 跡形もなく、きれいさっぱりと。

「あ……あ……」早くも声を取り戻したサーシャの眼から、第二陣となる涙が零れ落ちた。「ありがとうございます……大賢人様……!」
「礼には及ばんでの。さ、早う歌っておくれ」
「はい……!」

 固唾を呑んで見守る舞台の一同。サーシャは歌い出す前に俺の許へ駆け寄ってきて、

「あの、議長」

 涙で顔をくしゃくしゃにしたまま話しかけてきた。

「本当に、本当に、本当にありがとうございます」
「な、なんだよ急に。俺何もしてないぞ」
「いえ、全部議長のおかげです。わたし……わたし」
「あー、黙ってて悪かったな。俺が議長だってこと」
「いいえ、全然、全然悪くないです」

 笑顔が戻ってきたサーシャの頬に手を伸ばし、指の甲で涙を拭ってやる。

「傷は治せないが、これぐらいのことならな」

 えへへとサーシャは鼻を啜り、満面の笑みを返してきた。

「ありがとうございます」
「そうそう、笑え。お前は笑顔のほうが似合う。あと敬語はよせ。他人行儀で気持ち悪い」
「はい!」
「はいじゃなくてさ」
「あ、うん」

 よしよし、と頭を軽く叩いてやる。快適な猫のように薄く瞼を閉じたサーシャは、俺が手を離すと、今までにない力強い眼でこっちを見上げた。

「歌ってくるね、わたし」
「ああ。力むなよ、自然体でな」
「うん!」

 サーシャは再び舞台の前に移動した。数え切れない聴衆を見渡し、目立たない所作で深呼吸をする。
 大きく息を吸い込んだのち、彼女は歌い始めた。

 それは、今朝海岸で奏でていたのと同じ、あの旋律だった。



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