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『三重に偉大な議長の優雅な生活』第31話
2 牢獄へ
ここで十五分間だけ待て。それ以上経っても俺が戻らなかったら中に入れ。
そう指示を出し、俺は独り牢獄へ降りていった。
独居房にいる犯罪者に経路を尋ねるためだ。数年以内にぶち込まれた新参者なら、庭園の場所も知っているかもしれない。そう考えたわけだ。いつものことだが冴えてるな、俺。
前回来たときにはなかった重い閂を開け、幅狭い廊下空間へ。その一番間近にある鉄扉の前に立つ。
「おい」
返事はない。無人なのか、扉が厚すぎて聞こえないのか。
「誰かいないのか」
拳で扉の表面を叩きながら、誰何の声を放つ。
「ん」
俺は重大なことに気づいた。
鉄扉が僅かに開いている。
外の異変に乗じて逃げたのだろうか? いや、それだと完全に開け放たれていないのはむしろおかしい。それによく見ると、床に紅いものが点々と付着している。
血だ。
まだ真新しいその血液は、扉の下を起点に今通ってきた通路の方向へ。
違う、逆だ。
この血の主は外から来て、この中に逃げ込んだのだ。
その証拠に、扉の隙間から、
「う、うう……」
消え入りそうな、呻き声がした。
「お前は」
独房に足を踏み入れた俺は息を呑んだ。
冷たい石の床に腹部を押さえて倒れていたのは、なんと第二秘書のドルクだった。
「ドルクじゃないか。なんでここに」
「た、助けて……」
俺と全く同じ服装の、その上衣の腹の辺りに血が滲んでいる。ただでさえ悪い顔色はこれ以上ないほど白くなっていたが、出血の量はそれほどでもない。適切な処置を施せば数刻で回復しそうだ。
「こ、殺さないで……」
助命を嘆願する声がドルクの口から洩れた。ああ、そりゃそうだ。何せドルクの眼には、俺が剣を手にした正体不明の鉄仮面に見えているのだから。
「殺さねーっての。俺だよ俺」
剣を放り投げ、仮面を外してみせる。
それを見たときの、ドルクの表情ときたら。
そりゃもう、後々語り種にしたくなるような、最高の顔だった。俺にいっぱしの画才と手頃な画材があれば、忘れぬうちに書き留めておいたんだがな。
「ぎっ、議長……!?」
「誰にやられた?」
「が、外務大臣の、手下、です」
「やっぱりな。じゃ、空中庭園の場所を教えろ」
「は?」
ぽかんと口を開け、呆けた様子のドルク。目まぐるしく変わる事態に、なかなか思考がついていけないのだろう。まだまだ若輩者だ。
「あの、ち、治療は」
「治療? んなもん後回しだ。ていうか俺には無理。そのうち頼りになる連中が来るから、そいつらに治してもらえ。俺はすぐにでも庭園に行かにゃならんのだ。つべこべ言わずにさっさと教えやがれ」
ドルクは涙目になって道順を伝えた。諦念に満ちた小さな声で。
「なるほど。そんな所に通用口があったか」
俺は未だ起き上がれずにいるドルクの傍らに、鉄仮面とノヴェイヨンの剣を置いた。
「心配すんな。その二つがありゃ、後から来る連中がお前を助けてくれる。念のため合言葉も憶えとけ。いや、教えるだけの時間はないな。ま、ディーゴの翼は紅いとか、啼かないけど歌うとか、そんなこと言っときゃ大丈夫だ」
「ディ、ディーゴって、あの、オウムの、ですか?」
「ああ。それにしても運がいいぞお前は。申し合わせたみたいに、今日も俺と瓜二つの衣装なんだからな。真紅のディーゴにお目通ししたら、礼の一つでも言っとけよ」
「ディ、ディーゴ、ですか?」
「旗だよ旗」
「は、旗?」
「おう。神に感謝するより、ずっと現実的だろ? じゃあな」
俺は急ぎ足で通路を逆に辿り、同志たちに出くわさぬよう別の道を通って上階に到達した。
武器が手許にないのはかなり不安だが、使いこなせる技量もなくお守り程度の存在だったわけだし、仮面を脱いで身軽になれたことは単純に嬉しい。
俺は走った。
軽い、軽いぞ。躰が実に軽い。今の俺なら、多少の攻撃など殺陣の達人の如く楽々躱せる気がする。実際に襲われたら、踵を返して逃げ出すに違いないのだけれども。
んん? いやいや待て待て。
今や俺は仮面公ヌリストラァドに非ず。議長のライアなんだ。となると、衛兵も最早敵に非ず。注意すべきはジールセンお抱えの武装集団のみ。
「にしても、ジールセンの奴」
空中庭園は目前に迫っていた。
最後の十字路を右へ折れ、不自然に盛り上がった長く緩やかな坂道を駆け上がると、穹窿形に大きく口を開けた出入り口がやっと確認できた。
外界の明かりで眩く光り、その先は見通すことができない。
あれだ。あそこを潜れば庭園に出る。
間に合ってくれればいいが。
「でなければ……」
ジールセンの奴、もう殺されてるかもしれない。
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