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『三重に偉大な議長の優雅な生活』第28話

第8章 三重に偉大な議長、殺される


1 束の間の平穏


 吹く風の冷たさがいよいよ心地好いものに変わろうという、五の月上旬、炎の曜日。そう、〈解放と芸術の日〉。
 待ちに待った大音楽祭の当日だ。
 初夏の太陽はグングンと高度を上げ、空の青を少しでも薄めてやろうと強烈な輝きを発していた。雲一つ見当たらない、絶好の音楽日和。まあ音楽に限らず大抵のことができそうな天気ではある。
 例の海岸に足を運ぶと、少女は寄せては返す波間のほうを向きながら、自ら発する笛の音に静かに躰を揺らしていた。そう、この娘の長所は、全身を使って文字通り音を楽しんでいる点だ。競争に勝つための特訓とは、そこが決定的に違う。
 跫音を殺して近づき、後方の岩に寝そべる。竪琴は腹の上。
 サーシャは物置で初対面を果たしたときの、風変わりな服に身を包んでいた。
 やはりここ一番という場面では、着慣れた衣装が最もしっくりくるのだろう。物置で遭遇したあのときと唯一異なるのは、そのほっそりした首周りに浅葱あさぎ色の薄布を巻いていたことだ。大勢の人前に出るのだから、喉の傷痕を隠そうとするのは当然の心理ではある。
 …………?
 ……なんだこの旋律。
 聴いたことがない。初めて聴く曲だった。
 どんなに古い記憶を探っても、この音調は何一つ当てはまらない。サーシャは俺の全く聴き憶えのない曲を吹いていた。音階の連なりが、今まで教えたどの曲とも違う。不思議な情趣を帯びた、独特の旋律だった。
 自作の曲か?
 だとしたら、こりゃあ、とんでもない逸材かもしれないぞ。

「サーシャ」

 最後の小節が潮風に消えたところで声をかける。
 ビクッと肩を震わせ、サーシャは驚きを交えた笑顔で振り返った。

「今の曲、自分で作ったのか?」

 問いに対し、笛を掻き抱いたサーシャはこれ以上ない強さで首を振った。

「違うのか。じゃあ誰かに教わった曲なんだな」

 数秒ほどの逡巡に続き、曖昧に頷く。ほかの楽師に教えてもらったのだろうか。
 いや。こいつはもしかすると・・・・・・・・・・
 乱れた前髪が額に張りつき、眼許にまで垂れている。元々幼い顔立ちが、一際幼げに見えた。

「いい曲じゃないか。ありきたりな表現しかできんが、なんかこう心に染み渡るような、そんな調べだ」

 眼にかかった髪をそっと撫で上げる。サーシャは眼を細めてじっと俯いた。

「? 何固まってんだ。緊張するのはまだ早いだろ」

 せっかく髪を整えてやったのに、当のサーシャは紅潮した顔を下に向けたきりだ。

「なんだよおい」

 と、宮廷の方角から微かに聞こえる、重々しい物音。十の刻を告げる、時報の鐘の音だ。

「よし、早めに出掛けるか。遅れて入場できなくなると困るしな」

――――――――――――――――――――――――――――――――――

 海岸を離れ、サーシャと共に一路東の宮廷へ。
 道中、俺はどの曲目を演奏するのか尋ねると、サーシャは歩きながら横笛を口に当て、初めの数小節を吹いて聴かせた。それは俺が横笛用に教えた中でも、一番最初に譜面を渡した曲だった。

「なんだ、〈正午の半魔神のための前奏曲〉でいくのか。さっき吹いてた曲にすりゃいいのに」

 頑なに首を振るサーシャ。
 曲の尺に不都合でもあるのだろうか。何も俺が教えた楽曲に拘る必要はないと思うんだが。
 明らかに緊張の度合いを増していく少女に、思いつきの地口や軽口を連発してみたものの、なんら効果なし。

「姫君との勝負で気が昂ぶってんのか?」

 強張こわばった顔に変化はない。

「おいおい。音楽ってのは、もっと肩の力を抜いてやるもんだぞ」

 そうこうしているうちに、壮麗なる宮廷の威容が徐々に近づいてきた。
 俺が同行できるのは正門の前までだ。門番には面が割れているかもしれないので、その先には踏み込めない。

「俺が行けるのはここまでだ。この先は一人で行ってくれ」

 心細げにこっちを見返す少女。
 正門前の〈薫風くんぷうと日輪の中央広場〉はまずまずの人手だが、取り取りの楽器を手にした輩が数多く見受けられた。俺にも馴染み深い竪琴や笛の類が全体の半数近くを占めていたが、ほかにも高級そうな提琴や床に置く形状の琴、椅子のように座りその前面を叩く打楽器、振り回す速度によって音色を変える奇妙な棒、金物を大量にぶら下げた謎の楽器など、初めて見る楽器も少なくなく、異国風の両面太鼓を担いでいる者までいた。
 そんな連中が好き勝手に音を出すものだから、広場一帯は雑多な音色の入り混じった、さながら民族音楽の坩堝るつぼと化していた。

「大丈夫だって。ほら、招待状出してみ」

 胸許から封書を取り出す少女。

「後は受付に行ってそれ渡すだけだから、な?」

 この世の終わりといった表情で力なく頷き返す。大丈夫かおい。
 無理矢理封書を手に握らせ、両腕を掴んで門のほうを向かせる。

「心配すんなって。俺も客席で観てるからさ」

 薄布と後ろ髪で二重に隠れた項に向かい、そう囁きかける。
 チラッとこちらを横目に見たサーシャは、意を決したように小さく頷いた。

「よし、いいか。姫君の言ったことなんか気にするな。自分の演奏に身を委ねて、音楽を心から楽しめよ」

 笑顔が戻った。まだ少しぎこちないが。

「じゃあな!」

 片手を挙げて来た道を引き返す。横笛を持った手を大きく振っていたサーシャも、じきに人混みに紛れて見えなくなった。
 さて、この後は別の通用門から宮廷に引き返して、大音楽祭に先立つとある祭儀に出席しなくちゃいけないんだが、こいつがまた曲者で。
 暇で退屈で面白みがないのは眼に見えている。そんなもの苦痛以外の何者でもない。今年一年の豊作を願って農耕神に祈りを捧げる行事なんぞに、評議会の議長が出てなんになるってんだ。そういうのはもっと信心深い奴が参加すべきなんだよ。
 というわけで、ふけることにした。
 あそこには時機を見て戻ればいいだろう。いや、それも駄目か。議長として戻ることはできない。一度祭儀に顔を出そうものなら、抜け出すのは至難の業。そうなると、議長として引き続き大音楽祭に出席しなくてはならない。
 庭園に集う観客の中には、アリルとしての俺を知る連中も多数いる。そいつらの前で、議長たる俺の姿を見せるわけには絶対いかない。
 まあ議長不在でも祭儀は進行するはず。そこまで権限はなかろうし、あったとしても一旦出ないと決めたらもう出ない。東方の剣術使いがそうであるように、議長にも二言はないのだ。
 俺は音楽祭に参加できなかった悲劇の楽師アリルとして最初から聴衆に紛れ、そこでサーシャの演奏を見守るとしよう。
 繁華街がある北の街区へ、俺は足を進めた。
 音楽祭が始まるまで、まだだいぶ時間がある。祝日に浮かれ騒ぐ街なかのほうが、見ていてよっぽど快い。堅苦しいだけの祭儀なんざ真っ平ご免だね。



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