一回性のアウトラインと、
1つ習慣。
早朝の空気は澄んでいて、
いろいろクリアに生き返る。
哲学者ヘンリー・デイビット・ソローは、
著書『森の生活』の中で「朝にはすべてが再生される、更新される」といった意味合いのことを述べていますが、
朝活の先駆的な提唱もソローですかね。150年以上前に、朝の素晴らしさを言葉にした人。
朝の空気や静けさにひたるだけで、何かよく分からないですが心が満たされる気がします。
朝陽を浴びてセロトニン。心や精神、気分の様々な苦しみや病を考える際に、
個人の因子に基づくよりも、環境の様々な物質的な課題に目を向けて考えていけたらなと考えています。
けっして、個人1人の責任ではなく、社会の責任や環境の課題であることは多いものです。
せっかく生命がイキイキとしているのに、雨で室内にいるのはもったいない。
そうだ、森に行こうか。
雨の森の静かな音と、土の匂いと、草木の色が溶け出したような、みずみずしい風景。
草木を友に生きることの豊かさ、喜び。
雨でいきいきとした姿を観て、私もいきいきとしていく。
土の匂いは、大地・地球の生態系を守る微生物達との繋がりを意識させられます。
生命の繋がりを。
雨のウォールデンの森を1人あるくソロー。森の生活。そんなイメージ。
朝は楽しい、朝の1人の時間が大切。
しかし、さいきんけっこう心身ギリギリで、朝からずっと制作していて、首が痛い。
首が痛いと何をするのも辛い、寝返りも打てないから寝れない。
そこに気をつけなきゃならないと、自分が楽しくなきゃいいものは作れないからと、
そんな温かいご指摘をいただいたことがあったのですが、
ですが、、けっこう無理をして作ることに没頭します。そして、首を痛める。
哲学者ヴァルター・ベンヤミンは著書『複製技術時代の芸術』において、「1点物」のアート作品に宿る「アウラ」という概念について述べていますが、
この本のなかでは、その1点物のオリジナルに宿るアウラが、
近代以降の技術革新、
複製技術の登場によって、オリジナルの反復的な大量生産が可能になったことによって、
アウラは、反復再現不可能なオリジナルが持っているある種の権威であるとも言われますが、
特にアートが中世まで、権力者や宗教神話を描いた権威ある者の所有物であったことを考えても、
写真や映画等の複製技術によって届けられる物語は広く平等で(最近はここに公正公平さがもたらされようと大きな流れがあると思いますが)、
多くの人に先端テクノロジーが届くことによって、その独占的な権威が失われていく。
現在だと当たり前のように保障されているテクノロジーが多く、そのありがたさが分からなくなることも多いかもしれませんが、
やはり、自分1人で生きているわけではなく、様々な人々にささえられて、
また先人が築いてくれた遺産を継承して、今を生きている。
そうやって、日々の生活が成り立っていることを常に意識して、目の前の物事に取り組みたいです。
見えない生きにくさや気付かれにくい不自由さは、当然たくさんあるもの。
いのちは偶発的に生じるものなのだから、いま自分が保障された立場にいることにまず感謝したいですね。条件は同じではないし。
心が痛む深刻な背景も社会には多々ある。
目の前の苦しさ悲しさ、その声、いのちの切実な叫びに丁寧に触れたいです。
現代のデザイン教育の礎を築いたバウハウスのグロピウスは、複製技術時代の量産品を組み合わせ、
反復する素材を用いてデザインし、
また、一方で建築家ル・コルビュジエはモデュロールという尺度を設計し、ヒューマンスケールの概念を創造しましたが、
それら近代建築の功罪が問われるのも現代です
現在、東京国立近代美術館で開催中のゲルハルト・リヒターの現代アート作品からも、たくさんの問いをもらいました、
油画で描いたものをまったく同じスケールで写真にしたり。絵の具で描いたものと、同じスケールのデジタルプリントの作品があったり。
ゲルハルト・リヒター展。
とにかく素晴らしかったです。圧倒的で。
アナログとデジタル。それらが対面で並べて表現されたりもしていますが、、。
これらは近寄らないと、一見、初見の一回性だとデジタルプリントの方は、それがオリジナルを写真に撮って、出力したものだとはわからないです。
初見の一回性のアウラは、まず初めてなので「距離」がある。
アウラというのは「今ここ」の時空間と結び付いたものと言われますが、アウラが宿るのは「距離感」が重要なのではないでしょうか。
オリジナルと複製の弁証法的対峙により、
オリジナルのアウラ、その一点物のアウトラインは曖昧にボヤける。
そして近寄ると、光のあり方から細部のディテールで、アナログとデジタル出力の違いに気付く
写真の右側がオリジナル作品。左側がオリジナルと同じスケールの複製品。写真は遠景で細部のディテールは見えない。
一点物のアウトラインは曖昧にボヤけます
(この命題は他のフォトペインティング作品でも観られていて、今回の展示は時空間を活用し、作品と結び付けたアブストラクトペインティングによる提示ではないかと感じます)。
問いをリヒターの作品から受け取って、さらにアブストラクトペインティングのカラフルな作品をたくさん観ていると。
さらに、リヒターでとても興味深いのは、現代の美術界を厳しく批判していること。
現在90歳。
中世からルネサンスを経て、近代美術から現代美術へと変換を遂げた、
ピカソによる形の本質を問うキュビスムの近代美術革命も、デュシャンによる形態の現象への問いかけも、
現代アートの幕開けも、
そして、ドイツで戦争も経験して、
近代化~現代の激動の時代の生き証人でもある人。そのリヒターの現代美術への厳しい批判。
何を意味しているのでしょうか。
一点物や複製品、一回性のアウラを生み出す技術や技術の民主化の問い、、
そこで話は少し転じますが、
障がいを持った方のアート制作の場合、アール・ブュリュットやアウトサイダーアート等、通常の美術教育の文脈外にいる人のアート表現として語られたりしていますが、
そこで、私がいつも感じているのが、
その1つひとつの表現は何の文化にも属していない独創的な作品、、、
特に「視覚的な」作品は。
「社会的には障がいとされる特性」を持つ人の、そのアート表現は、まったく既存の文化に触れていない独自性のあるものとして語られることが多いような気がするのですが、
障がい特性という「一面」と、その人らしさという一面はまったく別物だなぁと思うことは、当然ですが日常多々あります。
障がい特性という「一面」とは違う「その人らしさ」について。それをその人の仕事にしているのが澤田さんの「特業」。
アート作品にしても、そこに表現されているのは、障がいがあることによる独自性のある作品ではなくて(創作における強さにはなっているのかもしれません)、
私達が表現することと何も変わらないプロセスがある。明らかに特定の文化の影響が反映されてることの方が多いと感じます。
多くの場合、周りから受けた影響を、当然みな同じく受けていて、それぞれ環境が違う、環境の変化の速度が違う、受け取り方も違う、そんな様々な、
それは特定の文化の反射光を受けて表現されているものではないか。
さて、話は転々、そして繋がる部分もありますが、
現場でアート制作に取り組み、そのあとにそれをまとめ、デジタルなどでデザインに編集したりと普段やって、形態や色彩、制作プロセス、そして現場のケアに日々向き合っていますが、
それらの取り組みをさせてもらった、
その仕事帰りの金曜日の夜、金曜日土曜日だけ夜間の開館延長がある、そのタイミングでリヒターの作品を観に行くことができました。
リヒター展が始まって最初の夜間開館延長のある金曜日に。
ここからまたリヒター展の話。順番がごちゃ混ぜ、雑然。
このガラス作品は、私自身も反射して写り、周りの人もボヤけて、奥にあるリヒターの油画によるアブストラクトペインティングの作品も、デジタルアートかのように見えたり。
リヒターの作品の思考回路から多くの学びと問いを受け取ります。
隣り合うものの、文化の。色の。反射光。複雑に。
マルセル・デュシャンにも合わせ鏡の作品がありますが。
また、このガラス作品とデュシャンの『階段を降りる裸体No.2』との関連性も現地のキャプションで語られていて、、
学芸員さんありがとうございます、でした。そういう視座で観て感じ考えてみると、。なるほど。
テンション上がる。
鏡の無限の反復反射に、曖昧な複数性と、そして具象の線や形態とは異なる抽象。
私達の様々な表現は、特定の文化の反射光を受けて表現されている。
人間は社会の中で、人との関わりの間で生きている。そして、その反射光を受けて様々な表現が、生まれる。
今回の目玉である『ビルケナウ』。
歴史的な課題とともに、現代のアート表現の問いもリヒターの編み出した技法で制作されている。
歴史的な背景については、今の私では勉強不足。書けるだけの知見がなく、これから学んでいきたいです。
日本人の私が受け取る1つの問いは不易流行。
永遠性のディテールと一回性のアウトライン。いや、逆かも。
わたしたち、
隣り合うものの反射光を受けている「わたし」、その人について。
「社会的には」障がいとされる、
特性を持った子ども達や、成人の方、また高齢者の方も含めて、私は日常のアート活動に現場のケアのプロセスを大切に取り組んできました。
皆さんが絵を描いてみると、一見、何を描いたのか分からない形態があることもありますが、
それはしかし、実際に何を描いたのかお訊きしてみると、
電車とかお風呂とか、好きなアニメやアーティストの作品とか、そうした何かしら、特定の文化に属したものを表現されていることが多い、
いや、無意識の発露というよりも、特定の文化の反射光を受けて表現されている、
それは、変化する環境のなかで生まれた偶発的ないのちの偶然性を発露する表現。
1本の線にさえ、意味や気持ちが込められていて、既存の文化のイメージを表現していることがほとんど。
障がい者だから、独創的な絵を描いているのではなく、とうぜん私達みんな、何かしら特定の文化の反射光を受けて表現をしている。生活している。
表現方法には様々な差異がありますが、しかしそこに何かしら共通した話題、文化を通してコミュニケーションをしている。
例えば、弱視の50代のダウン症の人(この書き方だと、障がいという特性ばかりが先に出てしまっていて、その「面」ばかりが強調される伝え方になってしまっていますが、私とその人との関わりから見えてくる面は、その人の人生の体験に基づきます)の作品では、
ラグビーボールのような楕円の形をまず描いて、
その楕円上に、ゆらゆらと曲線が引かれて描かれていきました。
私は隣で描いているところを観ていました。
そして、完成して、これは何を描いたのだろう?
私は「ばんばん」とは何だろう?と考えましたが、
すると近くにいた、長年その人の支援に携わっていた職員がハッとして。
「あ、それたぶんドリフですね」と教えてくれました。
私もここでハッとした、
この人はドリフの『いい湯だな』が好きで、曲がかかると踊りだす人なんです、
ばばんば、ばんばんばん。と。
私も納得して。あ、なるほどと。
「ばんばん、ばんばん」は、ドリフの『いい湯だな』を唄っていた。それを描いたんだと、私に伝えてくれていた。
ラグビーボールのような楕円は、お風呂の浴槽で、その中の曲線は恐らくお湯の「湯気」を表現している。
大好きなドリフの『いい湯だな』を、お風呂を描くことで表現されている。
そして、この人はそれが今も大好きだから、絵に表現した。お風呂の絵は、この人の人生の背景と、生きた時代と、好きなものを物語っている絵。
この人が触れた文化、その時代の文化の反射光を受けて、目の前の紙に表現されて、そして隣にいた私に、それが好きなんだと伝えた。
「ドリフいいよね」と。
この人と他のグループホームの人も含めて、一緒に近くの銭湯にいったこともあったので、また銭湯へ行こうと、
そうした意味でもドリフを通して絵を描いて、私に伝えてくれたのかもしれない。
何かしらの文化に属したイメージが表現されている。
共通点と差異がある。
その視座を持って、ていねいに触れてみる。
認知症の高齢者の方とは。
ある時、トイレットペーパーの紙をくしゃくしゃとして、それをポケットにしまっている方がいました、
私はそのモーションがとても珍しかった。
なんでトイレットペーパーの紙をもんでるんだろう?と。
そして、話を聴いてみると、「ちり紙」というワードが出てくる。
最初はティッシュのことを言っていると思ったのですが、どうやら違うらしい。
ん?「ちり紙?」。いや、「ちり紙」という言葉があるのは知っているのですが、それはただの言い方の違いなのではなくて、
ティッシュやトイレットペーパーの他に、そうしたティッシュと違う性質のちり紙という名称の商品があるっぽい?と。
なんとなく分かるような、けど知ってるようで知らないものです。
ベテランの職員に聴くと、昔はトイレットペーパーとかティッシュとかはなくて、
だいたいは「ちり紙」だったと。だから、高齢者の人で紙をもんでから使う人はけっこう多いとのことでした。
「ちり紙」はティッシュとトイレットペーパー両方どっちにも使えるものなんだと、
トイレにもたたんで置いてあって、今みたいにロールになって、カラカラと取り出すような使い方はしていなかったと。
ちり紙は固いから、くしゃくしゃ揉んでから使っていたと。
私には、紙をくしゃくしゃ揉んでから使うという感覚がありません。
ちり紙を使ってきた時代の世代の方々だからこその所作、モーション。
そのくしゃくしゃした紙に現れる複雑な線を観ていると、その人の生きてきた時代背景が物語られているようにも感じます。
話は別ベクトルに飛びますが、、、
しかし、こうした現代アートの表現優位っぽいことをやっていると、いつも疑問が浮かびます。
網膜の機能という意味だけではなく「視覚的な思考や知性」への問いがあるのではないか。
障がいを持った方と認知症の高齢者の方とでは、また違う部分もあるかもしれませんが、
さらに児童だと、音楽に合わせて、画材をぶんぶん、ぶん回しながらやったりと、またさらに違いがありますね、当然ではありますが。
画材ぶん回して、隣の子にあたりそうになりながら描いたりとか、気がつくと隣の子と喧嘩になりそうになってることもあるし、常にヒヤヒヤダラダラ。
女の子はこっちを観ながらイタズラしてて、
別の方を向いてた私が気付いて、あー何やってるのーと突っ込むとキャーと喜ぶことが多々ある(遊ばれてます。世のパパママ、保育士さん達は凄いなと思う、私は1時間でどっと疲れる)。
また、障がいあるなしに関わらず、大人になるほど視覚優位の表現がやはり多い。
理知的に操作可能だからでしょうか。視覚は理知的にコントロール可能な感覚表現。
視覚表現は「形」や「色彩」など、二次元上で軸を設定して、理性的な操作をしている。
目で見て、手を動かしている。
だから、目の前のモチーフの二次元上での写実的な再現性を計画して「描く、思考する」ことができる。
視覚以外の感覚では、そうした二次元上の抽象化はほとんどできない。
当然それは音そのものではないし、触覚そのものでもなく、それは視覚以外の感覚の視覚化・可視化。
視覚は理知的な操作が可能な感覚。
一方、シュールやリヒターのアブストラクトペインティングの偶発的な表現には、目で観て理知的に操作調整する作業が少ない。キッチンナイフで削る主観的な表現はあったとしても
大人になると、視覚優位に物を観てしまう。
近代以降の人は、左から右へ情報を読み取る目の習性があるから、メディアはその現代人の目の機能に基づいて情報をデザインする。操作する。
そんな視覚的セオリーは多々ある。
戦時中のドイツも経験したリヒター。難しい問題もたくさんある。
アートに出来ること。
そのゲルハルト・リヒターの人間的な知性に強く共感します。
子ども達も、視覚以外の音や肌触り、ペロリと舐めてみたり、くんくん匂い嗅いだりしていて、五感を通した反射光を受けて表現しているように感じることが多いです、
全身で体感して。
特に五感を統合する感覚を「触覚」と私は考えています。
たまに直感とか、第六感とか呼ばれるような感覚は、触覚として統合されてる何かしらの感覚ではないか?と考えています。
有名ですが、
不思議なことなど何もないのだ、だから不思議だし、不思議なことって素晴らしい。
私も霊魂とかお化けとか、
そりゃさすがに21世紀現代にいますから、
一般的な科学的な世界観を基盤として「見ます」が、
しかし、夜の廃墟とかは怖いと感じる。
なーんか薄気味悪い、身の毛もよだつ感覚みたいのも分かる。
まさにそうした身の毛もよだつ触覚的な感覚があるときは、オバケも「見えている」のだと。説明として分かる(逆にそれっぽい固定観念、オバケっぽいステレオタイプの演出を破れば、うごかせば「見えない」、あたりまえですが)。
この小説の主人公はだから、、その古の呪文を知っているから、
その反対呪文として、その妖怪、人間の無意識に巣くう憑き物落としが、この主人公はできる(必ずしも成功はしない)。
これらの触覚的な言葉は時空間の概念と結び付いているように考えています。
触覚自体が視覚的に静止して捉えられた感覚とは異なり、そもそもモーションから発生することを考えると、触覚がそもそも時空間と結び付いた感覚ではないでしょうか。そもそもですが。
少し話がそれましたが、
人間の意識の「認知」についてです。
子ども達は身体を動かし、触覚とリンクしたモーションから五感で体感して味わっている。
眺めるというよりは触れて、生の鮮度の情報を確認している。
そこに五感で参加して、受け取っている。
鏡に映るように、心の1つの面に色が映る。
特定の文化の反射光。
そんな視座から、キュレーションを考えていくことができるのは、その人の目の前で、その人の隣に、いつも傍にいる人ではないかと思います。
実際それを実践されている素晴らしい人もいますよね、
久しぶりに再会(こころいき)して、
私も前に進めた。
共に生きた人達を大切にして、
辛さとか苦しさとか共有してきて、一番大切なのは、その現場の仲間だからと、
保障ある立場からも離れて、自分の大切な人を、社会に伝えていく、
そんなことを続けている、
人の間を編んで集めるこころいキュレーター。
そして、いままた現場にいて、日々考えている仮説を、今度はこの同志に伝えられたらいいなと思います。
心意気。
こころいキュレーター。
特定の文化の反射光を受けて表現されているもの。
この仮説を問いとして、いま表現しているものがあり、没頭します。
仮説というと、
編集者の佐渡島庸平さんは、
直感から仮説を立て、
私がここで、自分が出来てないと感じるのは、
この「直感」と「調査」を同時に、連続するプロセスの中でやっていなかったこと。
直感だけの時と、調査だけの時があり、直感が先行しつつそこから生まれた仮説を、先行事例や類似研究で補強し、仮説を鍛え直し強化して、それを検証し、繰り返していく。私はこれができてない。
澤田智洋さんのクリエイティブの方法論でも同じく、直感を大切にしたアイデア、仮説コンセプトの設計があり、
『ガチガチの世界をゆるめる』『マイノリティデザイン』『ホメ出しの技術』と、まさにそのクリエイティブの根本のコンセプト、アイデア、言葉のプロフェッショナルである、
澤田さんは「鳥肌」を大切にされてることを言っている。
自分が「鳥肌が立つ」ような身体が感じるものを追求されている(しかも、澤田さんの場合はその鳥肌ポイントの抽出が、多面的に行われている)。
これはやはり、自分の身体の直感で、
そこから仮説が立てられて、フィールドワーク、調査研究の中で、そのコンセプトアイデアがどんどん現実の形になっている。
このお二人のプロセスに学んで、そう考えて、現場での実践を最近いろいろと見直していました。
また、現代最高峰の芸術家、イメージメイカーであるゲルハルト・リヒターのアートを通した問い、人間的な知性にも何度も触れて問いを続けています
さて、最初の方に書いたベンヤミンの「アウラ」の概念に戻りますが、
アウラという、今ここの時空間と結び付いた一回性の価値。
私は祖父がなくなり、もう7、8年経ちます。
美術と農業と福祉の仕事をして、晩年、近代美術館創設の責任者だった。
祖父の遺品の美術品管理を私がすべて請け負ってからも数年。
祖父の遺品を整理し、何点か祖父やその師の作品を持ち帰って、
10代の頃に祖父からもらった花の絵の隣に飾って観る。隣り合う作品の目の中の混色か、意識の中でのイメージの結合か、残像か、いつもと違う絵にも見える気がする。
私も子どもの頃、入谷朝顔市だったか、お祭りで買った金魚が弱ってしまい、
助けを求めに祖父のいる田舎へ、その金魚を持って新幹線に乗り、会いにいった。
その後、その金魚は祖父に預け、何年も生きて、とんでもなく大きくなった。
もちろん、都市ほどに便利な専門サービスがないからというのもあったのかもしれませんが、
それにしたって、名も知れぬ農家の人が1人で何でもできる凄い人であることは多いですよ、
私は何人も凄い農家の人を知っている。
百の専門性が統合されて、その土地の風土・自然と共に生きる術が編み出されていった。
祖父の絵画はもう見慣れていて、ポストカードにもなって量産されているし、
私にとって、その一回性のアウラは失われたと感じていた絵、もちろん大切にはしていますが、
心が大きく動くハッとしたものはなくなっていた絵。
人の、生命、
一回性のアウラは、永遠性に回帰する、、、永遠性のディテールが一回性のアウトラインと結び付く。永遠に宿る瞬間。瞬間に宿る永遠。
見ず知らずの人であっても、その人の遺影や遺品を観ると、一回性の鮮やかさに永遠性を感じる。それが想い出深い家族や親しい友人なら、なおさら。
余白。
一回性のアウトラインと永遠性のディテール。
この長い文章の冒頭に書いた、雨の森の話へ最後に戻りますが、
雨の森の植物が鳴らす静かな音と、いのちの記憶を想起するような土の匂いが合わさる中にも、
一回性と永遠性が溶け合う心地を感じています。
一回性のアウトラインと永遠性のディテール。
問いはつづきます。
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