わするなぐさ
「名もなき花などない、名も知れぬ花だ」
多様な新種を発見し、命名し、草花のスケッチをして、常に現場でフィールドワークを続けた植物学の牧野富太郎博士。
の、言葉。
上記の言葉やその研究の姿勢等、尊敬してやまない植物学者ですが、
そんな牧野博士が「勿忘草(わすれなぐさ)」という一年草を、
「わするなぐさ」と命名していて、
今日では勿忘草の別名として使われることの方が多い名前のようですが、
「わするなぐさ」という呼び名に、上記の牧野博士の言葉に通じるような温かさや生命への姿勢を感じてとても好きです。
可憐で儚く、
ひらひら、連綿と広がる小さな青い花。
一番好きな花かもしれません。
多様性が言われていますが、
牧野博士が仰るように、
名もなき花などなく、
名もなき人がいるのでもなく、
まだ名も知れぬ花がたくさんあって、
自分にとっては名も知れぬ人、いのちが世界にたくさん生きている。
名もなき花などない、名もなき人などいない、
いのちに、それぞれ物語がある。
そのことを忘れな、いようにいたいです。
最近、分人という概念を知って、記事を書きながら、この牧野博士の言葉を思い出しました。
分人とは、作家の平野啓一郎さんの提唱する概念で、編集者の佐渡島庸平さんもnote記事で紹介されてました。
分人は、1人の人間の中に、その人間関係から生じた複数の人格がある。そんな考え方(まだそんなに解像度高くないので解釈が変わるかもしれませんが)。
かといって多重人格とは違い、
その人の人間関係から自然発生的に生じている人格。親や友人、同僚や上司、見ず知らずの人との人格(分人)は異なる。
その人の人間関係の数だけ、偶発的におのずから、分人は生じていると考えられる。
いま、その分人と遺品についての記事を書いていて、note記事として残そうと進めています。私はいまこの表現をしたい。書かずにはいれない。
「分人」という考え方においては、
個人と呼ばれる人格を、その人の「人間関係」という尺度から分解し、その分解し、分かれた1つひとつの人格を「分人」と考えてみている。
そして、社会生活上、自然発生的に生じている1人の人間の中の複数の分人を、その人と環境の相互作用、化学反応、因果関係から紐解き、認識してみる。
物理学で物質を原子、さらには素粒子にまで分解して自然を認識し、世界観を獲得していこうとするように、でしょうか。
1人の人間の人格は、「個人」という必然的な宿命を持ったストーリーから形作られ色づくものではなく、
むしろ自然発生的、偶発的に生じる人間関係から生まれてくる「分人」、そんな環境との相互作用の物語、ナラティブから形作られ色づけられていく。
そんな解釈を今しています(分人について)。
その人の置かれた環境の、その人間関係の摩擦から発光する「光」。
その1つひとつの光から生じる、隣り合う物に投影される反射光の、その「翳り(かげり)」の中に、複数性を持った「面影」が分人として現れていく。
1人の人間の中に多様性があり、多面的な側面がある。
翳り(かげり)の中に、様々な人間関係から影響を受けた、複数の、多様な面影がある。
そんな人と人の間の、
「人間関係」から生じた分人は、なんとも深い人間らしさを表しているように感じ、人の心のあり方として解像度高くとても腑に落ちる考え方でした。
つぎの記事で「遺品と分人」をコンセプトにまとめた内容を投稿します。書かずにはいれない。
分人、、そんな人と人の間に、複数生じる人格の、その「人間らしさ」の中に「その人らしさ」も芽生えていくのでしょうか。
名もなき花などないように、まだ名も知れぬ多面的な人の、百面相を、
その名前を1つずつ知っていけたらなぁと思います。
読んで下さった方、ありがとうございます。
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