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ガウディの建築造形と篠田太郎さんの『ドローイング』

広尾駅で降りて、、、

去年亡くなった篠田太郎さんの『ドローイング』のギャラリー展示を観てきました。

その前には、国立近代美術館のガウディ展も観ました。

素晴らしい学びでした。



篠田太郎さんのドローイングが、とにかく不思議な世界で、とても引き込まれる画・面だったのですが、

その不思議な世界へと、いざなわれるものはなんでしょう。

篠田太郎さんの現代アート作品、特に枯山水が好きですが、

ドローイングは初めて。

じっと観ていると、絵の中の草むらやキノコ、石、その形や模様は一般的なイメージ、、

しかし、この独特な不思議さはなんだろう?と。


そこで、ハッと思い出したのがその前に観たガウディ展の展示でした。

国立近代美術館で開催していた『ガウディ展』の最後のコーナーは、

ガウディが残したものを研究し、その知見を幅広い分野で受け継ぎ、発展させていくには?

そんな問いのあるコーナーでした。

そのコーナーで、

建築家・入江教授の話しにこのようなものがありました。

ガウディの言葉で好きなものは、、、

「生命ある造形のビジョン」

「この生命の感覚、これを私達は作品に与えなければならない」

「この観点から、私たちのあり方を反省しなければならない」

ガウディの言葉。

そのガウディの言葉に対して、入江教授は、、、


いろんな部分が統合していって、一個一個のパーツが全体を作るということではなくて、
 
生命あるものが、その有機体が、各々が関係しあってできる、そのことの中に生命が生まれてくる。

と、話されてました。

※一言一句、正確ではありません。
私がメモしたことです。

ここで感じたのが、私がちょっと前に書いたもの、、

近代建築は一個一個の既製品のパーツが連続重なり、そこに生まれた「機能」が形態を作る、、 

一方で、現代アートは様々なもの、物質だけでなく概念も含めて、、おもちゃ箱のように混ざり、カオスで、エントロピーが増大、乱雑さが広がる程に既存の形を壊しながら、それぞれの関係性が化学反応し「未踏」が生まれ、、、

なんて仮説を書きましたが、、

今回学んだことで、考えや、視座に広がりを持てたように感じます。

そうして、、、、、、、

1つ考える中で思考の中へ出てきたキーワードは、

「生態系」。

入江教授の言葉。

各々が関係しあってそのことの中に「生命」が生まれる。

生態系が誕生する、
ということ?

生命が有機的に関係して生態系が生まれる、
いのちが連続する。

生命が生きられる世界。

ガウディの建築は、生態系の創造を目指していたのでしょうか(仮説)。

そう考えてみれば、ガウディが当時のアールヌーボーの時代背景もあり、、


建築の「装飾」に植物の曲線を活用していただけでなくて、

「建築の造形そのもの」に動植物の形態を取り入れようとしていたこと、

今回の展示でもそのことが紹介されていましたが、、


いろいろ繋がります。


ガウディの建築は、ただ単にアール・ヌーボーとして分類されるものというよりも、その時代の潮流に深く学んだ上で、さらにその先の進化を観ていたのでしょうか?

その後、近代建築では、装飾はなくなっていく方向性ですが、、、、

ガウディは装飾に植物のような曲線を採用しつつ、さらに建築造形そのものを自然曲線で設計し、、そこに1つの生態系のようなものを創造していくビジョンがあった?

ガウディは建築で生態系を作ろうとしていた、、、

サグラダ・ファミリアは、
終わることなく変化し続ける生態系。

仮説。

思えば、

近代建築の巨匠ル・コルビュジエが目指した無限美術館、フィボナッチ数列の自然黄金比の長方形、

その無限の渦巻きによって生まれる、
 
「1つの視座の推進力」は、

右肩上がりの経済成長の時代には、機能だけでなく、物質的な象徴としても必要性のあったものと考えますが、、

現代ではその持続可能性に無理があり、見直されている。1つの視座・思想の推進力だけでは、、、、世界は持続不可能。

ガウディが建築造形で目指した(仮説)、

生態系と呼べるようなものを建築空間に作りだし、無限に変化する、作り続けられるサグラダ・ファミリアの造形原理の方が、

ル・コルビュジエの「無限」よりも、

持続的に次の時代へ続いていく「デザイン」だったのかもしれない。

伊勢神宮も。

サグラダ・ファミリアとは違いますが、

作っては壊して、再生する。


エントロピー増大の法則に抗って、破壊再生して分裂する細胞のように、

職人への技能伝承も、持続可能な地域経済にも繋がる。

ガウディは、動植物の形態を物理的なデザインとして採用するだけではなくて、、

そもそもその動植物の形態観察・研究を通して、自然の摂理・原理、、真理を探求していた?

こうしたガウディの建築造形、その研究を観ていくと、東洋の自然観や日本の作庭の美学にも通じてくるものが、、あると感じるのですが。

さて、篠田太郎さんの『ドローイング』展に
戻って。

篠田太郎さんは造園を学んで現代アーティストに。

先にガウディを観てから、篠田太郎さんの『ドローイング』を観たのですが、

篠田太郎さんの不思議なドローイングの中の、

絵の1つひとつ、草むらやキノコ、岩、水等の色や形は一般的なイメージのものが多く、、、、

しかし、とても不思議な画面。

不思議と、、引き込まれる画・面。

1つひとつは既存の色や形だけど、、

その組み合わせで、1つの生態系のようなものが。

1つが部分としての「歯車」になるのではなく、

生命あるものが、、有機的に関係し合うなかで生まれる生命・生態系。

「自然」であること。


1つひとつの「自然」というオリジナルが、有機的に
関係し合う中で誕生する「生命」、

「いのちある生態系」。

この記事で考えたことは、当然更新して、さらに前へと進まねば(もちろん、「仮説」なので、その繰り返しが前提ではありますが)。

自然(じねん)こそオリジナル。その1つひとつが有機的に関係し合って生まれる持続可能な生態系。

建築造形&作庭空間。

いのちある生態系。

新たに発見した問い、
でした。
撮影可能領域にて。

創造は人を介して途絶えることなく続くが、人は創造しない。

人は発見し、その発見から出発する。

東京国立近代美術館で展示されていた、
ガウディの言葉。
東京国立近代美術館
『ガウディとサグラダ・ファミリア展』にて。


ガウディ。その目指したものから、
受け取り、次に繋ぎます。

読んでいただきありがとうございます。

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