さようなら、宇宙人。

「パンがあったとしたら、何を挟みますか?」

「え?」

 カウンターに広げたメニューを拭く手を止めて、私は彼の質問を聞き返した。
 レジのモニターが表示する時間は20時31分。商業施設の一角にあるチェーン店の中で、その質問は私に投げ掛けられた。ラストオーダーも終わり、店内に残る数人の客が帰るまで、私は今やらなくてもいいであろうメニューの拭き上げをしていた。一応雇ってもらっている身だから、時給分の仕事はしておこうとアルコールスプレーを駆使してメニューをピカピカにしようとしていたのだ。そんな私の手は、意味の分からない質問によって止められてしまった。
 私に質問してきた彼 ─── 田中君は、まるで業務でわからないことがあったときのように私を真っ直ぐ見ながらもう一度その問いを繰り返した。

「パンがあったとしたら、何を挟みますか?」

 数か月前に入ってきたアルバイトの田中君。私より6cmくらい高い視点から私を見下ろしている。恐らく大学生なんだろうが、どこの大学に通っているのかも何の勉強をしているのかも知らなかった。少しだけの興味はあるが、それを聞いたとして返せる相槌は「へー」くらいだろうし、30歳が現実味を帯びてきたフリーターと仲良くなっても何の得もないだろうと思って聞くのはやめていおいた。
 質問されるのは嫌いではない。少なからず自分に興味を持ってくれていると感じるからだ。だから田中君がどんな質問であれ、私に聞こうと思ってくれたのは嬉しいことである。だが、こんなに雑談が下手な子だとは思わなかった。

「パンって……何パン?」

 私も自分がこんなに会話が下手な子だとは思わなかった。
 店内BGMはボサノバだかジャズだかが流れている。カウンターから3番目くらいに近い席の客が、さっき私が運んだキャラメルマキアートのホットをズズズと音を立てて飲んだ。ありふれたエスプレッソマシンで淹れられたキャラメルマキアートはここでしか飲めない味なんかじゃない。

「多分、フランスパンです。細長くて硬いやつ。」

 彼は私が返した質問に少しの笑顔も混ぜないまま淡々と答えた。フランスパンというだけで伝わるのに、何故かフランスパンの形状をジェスチャーで教えてくれた。これは彼なりの配慮だろうか。26年間生きてきたが、フランスパンを知らないかもしれないと気を使われたのは初めてだった。

「えっと、フランスパンがあったら何を挟むかって、聞いてどうするの?」

「文化を学びます。この地球の文化です」

 この子はたった一つの質問だけで人の度肝を抜くのが止まらないな。冗談なのか本気なのか、そして一番求められているであろう答えは何なんだろうか。考えようにも意図が掴めない質問に対しては頭も働けない。自分自身を落ち着けるために手を開いて、握って、それからようやく言葉を使うことができた。

「そんな、何でそんな宇宙人みたいな言い方なの?」

 まるでその言葉が合図だったように、壁側の席に座っていたサラリーマンが立ち上がった。伝票と鞄を持って、ブレンドコーヒーが入っていたマグカップは机に置いてレジに向かってくる。私はこの会話を終わらせられる理由ができたと嬉しく思いながら、カウンターのメニューをまとめて、アルコールスプレーをカウンターの端に寄せた。

 サラリーマンが近付いてくる。私の勤務時間の終わりも近付いてくる。早くこの意味のわからない質問を投げてくるようなアルバイトの子から距離を取ろう。とりあえず田中君にはゴミ捨てに行ってもらおう。また変なことを言い出さないように、私たちには物理的な距離が必要だ。

 そう考えて、私は顔だけを田中君に向けてゴミ捨ての指示を出そうとした。『ごめん、レジやるからゴミ捨て行ってきてくれない?』。文言も決まっていた。私はそれを言うために口を開いたが、彼の口の方が速かった。

「そうです」

 目が、彼の目を見た。

「僕、他の惑星から来たんです」

 一瞬、彼に全ての感覚が奪われたように思えた。
 目は彼だけを見て、耳は彼の声だけを聴いて、肌は彼の纏った空気だけを感じていた。1秒にもならない時間だが、私と田中君は見つめあった。たったそれだけで、これが本当のことなのだとわかった。

 田中君は固まってしまった私に「レジお願いします」とだけ言うと、キッチンの方へ向かっていった。私はすぐにハッとして前を向くと、サラリーマンが財布を漁っていた。
 


『この町への滞在期間はあと4日間あったのですが、自分の正体をバラしてしまったらすぐに別の場所へと移動させられるのを忘れていました。なので明日の17:00~21:00のシフト変わってもらえませんか。』

 そのメッセージに気付いたのは次の日の朝だった。起きた私は日課のようにベッドの中でスマホを開いて、通知欄に見覚えのない名前があるのを見つけた。
 メッセージアプリ内で「ともだち」になっていなかった田中君のアイコンは、どこかの知らない街並みと、相変わらず笑っていない彼だった。昨日の会話をまだ引っ張るつもりなのかかとか、そもそも何でそんな重要なことを忘れていたのかとか、聞きたいことは色々あった。しかし彼が他の惑星から来たのは多分本当だろうから、彼がもうあのバイト先に来なくなるのは理解できた。
 彼からのメッセージをこのスマホが受け取ったのは今日の0時13分だった。この文章内の明日が今日を指すのか明日を指すのかわからないが、どちらだとしても私は彼の代わりにバイトに行くことができた。
 『いいよ』とだけ送って、少し考えた。そして『卵サラダ』とも送った。すぐに既読がついて、『ありがとうございます』と返信が来た。

 彼はまた違うところに行って地球の文化を学ぶんだろうか。地球の文化を学ぶ理由は何なんだろうか。もしかしたら彼は悪い宇宙人で、学んだ内容は地球侵略に使われるのかもしれない。その場合、侵略してくる宇宙人は硬いフランスパンに卵サラダを挟んで持ってくることになる。

 彼が悪い宇宙人だったらいいのにと思った。
 それから、16時に家を出れるように15時にアラームをかけて、私はもう一度ベッドの中で目を閉じた。

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